「植物はどうなんだ」についてもう一度考える




 掲示板の中で繰り返し、繰り返し出てくる指摘に「どうして動物の事ば
かり言うのだ? どうして植物はどうでもいいのだ」と言うようなものが
あります。

 正直言って、私はこの意見にはほとほとうんざりしているんですが今ま
で断片的にしか答えてこなかったし、その他にちょっと思うところもある
ので、ここらで少しまとめて書いてみたいと思います。


 その質問に対して私はおおむね「牛とリンゴを同列に置くなんて無茶だ」
という答え方をしてきました。

 私は(というより動物の権利運動の考え方の主流ですが)権利を認める
かどうかという基準を苦痛の有無とするので牛の明らかな苦痛とリンゴの
苦痛(そんなものが存在するのかどうか極めて疑わしいとは思いますが)
を同列に置くのは馬鹿げていると考えるわけです。

 牛が苦しんでると本当に分かるのかという人もいました。でも犬や猫な
どを飼ったことのある人だったら動物が痛みも感じるし豊かな感情を持つ
存在である事は常識的判断として分かるのではないかと思います(もちろ
ん科学的に言えば牛の神経系とリンゴの神経系(?)は明らかに違うという
事も言えるでしょう)
 動物の苦しみなんて本当の事は分からないのではないかという意見に対
しては、
「他人の苦しみだってつきつめれば本当のところは分からないのでは
 ないでしょうか? 分からないから他人の権利なんて尊重する必要
 はないと思いますか?」
 と答えました。

 つきつめれば私達の感覚なんて当てにならないものだとは言えるでしょ
う。でもそうは言ってられないから、とりあえず私達は常識的判断に基づ
いて生活しているわけです。

「あっちからトラックが走ってくる様に見える。しかし、あのトラック
 は本当に実在しているのだろうか。私の脳が作り出した幻覚ではない
 とどうやって証明するのか。いや、それ以前にそもそも私は本当に今、
 この場所に存在しているのだろうか?」

などといちいち考えこんでいたら本当にトラックにはねられてしまいます
から私達はトラックが来たと思ったらさっさとよけるわけです。そうやっ
て私達は生活を成り立たせているのです。何故、動物の権利の問題を考え
る時に限って執拗に常識的判断を無視したがるのでしょうか。

******************
 こう言ったところが、大体、この問題に対する私の考えでした。しかし
FAQ#04を訳してみて別の答え方がある事が分かりました。
 私が動物の権利は認めて植物の権利は認めないという事は
「動物の権利を認めるべきかどうか」という議論には何の関係もないとい
うことです。

以下はアニマル・ライツ・センターのFAQからの引用です。

>「植物の権利を認めないのであれば動物の権利も認めない」という議論は、
>「植物の権利を認めないのであれば人権も認めない」という議論に発展さ
>せることができます。植物の権利を擁護しないことは、動物の権利を擁護
>しない理由にはなりません。

 もし動物の権利だけ認めて植物の権利は認めないのはおかしいとお考え
なのでしたらフルータリアンになるなりなんなりして植物の権利も守ろう
とする道を模索されたらいいのではないでしょうか。それはそれで素晴し
いことだと思います(ただ、前にも書きましたが植物の権利のことを言う
人が真剣に植物の事を心配しているとは思えませんが 自分ではっきりそ
う認めている人もおられましたし)

 「神経もなければ叫び声をあげることもないからと言って植物を殺して
も良いと考えるのは間違っている」という意見には一理あるとしても、そ
こからどうやって「目に涙をうかべ死の恐怖におびえ痛みを感じる動物」
を殺しても良いという話になるのですか?

 或いは、フルータリアンになったところでリンゴの権利を守れないから
だめだとか言い出す人がいるかもしれません。しかしリンゴの実というの
は放っておいても木から落ちて腐っていくものです。その権利をどうやっ
て守るのでしょうか?(だんだんと議論が馬鹿馬鹿しいものになってきて
る気がしますが)
 
 そういった議論をする人はひたすら今のままで仕方ないのだという結
論を出す事だけをめざしているのではないでしょうか。
「生き物の権利はみんな同じである」=>
「しかし、すべての生き物の権利を守ることは不可能である」=>
「だから、今のままで仕方がないのだ」
と持って行きたいだけではないのですか。

 あるいは私が動物の権利のことばかり言うのが、「気にくわない」とい
うのが実情かもしれません。
「気にくわないやつが言うことなど聞く気になれない」と言うことなのか
もしれません。でもそれならそれはもうただの感情論で議論の対象にはな
り得ません。


 そうは言ってもその「気にくわない」と言う気持はまるで分からないで
もありません。多分それは日本にはもともと「生きとし生けるものを慈し
みなさい」と言う仏教的精神の土壌があるためではないかと思います。
西欧の場合にはそうした精神的土壌がないから、例えば痛みを基準に線引
きをするといったある意味、合理的な考え方にそれ程、抵抗を感じないと
いう面があるとは思います。

 しかし、もともとの「生きとし生けるものを慈しみなさい」という教え
が(それ自体は素晴しいものだと私も思います)
「生きているものはみんな同じだ」=>
「だから、結局どうしようもないのだ」と曲げられて現実の動物の虐待を
正当化する理屈に使われるとすればそれは随分、おかしな話だと思います。

 日本人はそうした仏教的精神土壌もあって江戸時代までは肉をほとんど
食べていませんでした。明治時代になってから文明開化だの西洋にならえ
だのと明治天皇自ら率先してこぞって肉を食べるようになってしまったの
です。そして肉食に反対する考え方が西洋から入って来たときには西洋に
はならわずに「仏教的精神土壌」を根拠に肉を食べ続けようとするのでし
ょうか。変なもんですね。


 でも自分でこんな事をやっていて言うのもなんですが「動物の権利」と
いう考え方を日本に根付かせるのは大変難しいでしょう。

 そもそも「権利」という概念自体が西洋から輸入されたものです。私は
「人間の権利(人権)」というものさえ日本に本当に根付いているのか極
めて疑問に思っています。

 もし根付いているのだったらどうして、

「無理心中が後を絶たないのか」
「通学中の児童にヘルメットをかぶる様に強制したりするのか」
「君が代の伴奏を拒否した教師が処分されなければならないのか」
「サービス残業の様な慣行が当り前の様に行われているのか」

(他にもいくらでもありますが)・・疑問です。
 

 「人間の権利」も分かっていない様な国で「動物の権利」を説いたって
無理というものかなと思う事もあります。日本で肉食を減らすという事に
関して実質的成果をあげる事を重視するのなら動物の権利の話などは出さ
ずにひたすら健康面の話をした方がいいのかもしれません。

「みのもんたが肉を食べるなら週に一回か二回までにしておきなさい:と
 言ってたぞおー」
 とか(ちなみにこれは本当にそう言ってました)

でもそいつぁ、なんだか、とほほな話です。




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