(1)始めに [#001,#004] 皆様は肉を食べる事に疑問を持たれた事はないですか? 言うまでもなく肉はもとから肉だったわけではありません。 命も感情も痛みも持つ動物、そしてその大部分は家畜として飼わ れていた動物だったわけです。 問題は動物を殺すことだけではありません。 家畜は経済効率の原則にのっとって扱われます。 どうすれば一番もうかるか、ですね。 たとえば限られた面積に死なない程度にどこまでつめこめることが 可能かといったことです。 命も感情もある生き物が工業製品の様に扱われてしまうわけです。 もう少しましな扱いを受ける家畜もいることはいるでしょうが。 肉を食べることはやはりそうした家畜の苦しみに対し直接の責任がある のではないでしょうか。 その疑問は私が子供のころから持っていたものでした。 疑問は持ってても肉は食べてたのですが7年程前に 『動物の解放』(ピーター・シンガー/技術と人間)という本を 読んだことが 直接の契機になり以来、肉は食べないことにしました。魚貝類は食べている のでベジタリアンにはなりきれないのですが、とりあえず家畜製品を避ける ということで。 でも私にえらそうに言う資格などありません。 卵や牛乳をふんだんに使うおかしだって食べてるし、大体、魚なら問題ない のかというとそんなことないですよ ね、やっぱり。 でも実際問題、魚までやめると外食だとほとんど食べられるもの がなくなっちゃうんですよ。インドだったらベジタリアンになる のは簡単なんですが。 まずは問題提起をしたいのです。皆様のご意見をお待ちしております。 [加筆] 私には『動物の解放』にのっていた写真の実験動物にされた犬の目が 忘れられません。 おりに入れられた大きな耳と目をした小さな犬が悲しそうな顔でカメラを みています。 その犬のうしろ脚は写真では、はっきりとは分かりませんがかなりひどい ことになっている様です。 写真のキャプションにはこうあります。 「この犬の脚は心理的ストレスを与えるため、ハンマーでくり返し打ち 砕かれた。実験期間中は傷の手当も麻酔も与えられない」 私は心の中で彼(彼女かもしれませんが)に約束しました。 『私はできる限りの事をしよう。私に何ができるかは、分からない。 でも、できる限りの事はしたいと思う』 (2)動物の権利について [#014] 蔵前仁一さんの『旅ときどき沈没』(本の雑誌社)というエッセイに <絶対菜食主義者> という話がでてきます。 インドのジャイナ教徒のお話です。 >>ジャイナ教というのは仏教と似た宗教で、インドに古くからある >>禁欲的な宗教だ。肉食は絶対にしない。 厳格なジャイナ教徒はジャガイモやタマネギは、食べると植物の命を うばってしまうことになるから食べない。食べるのは果実としてな っているものだけ。。。だということだそうです。 蔵前氏は最後にこう書いてます。 >>生命を尊重することはもちろん大切なことだが、半端なことで >>ベジタリアンなどといってないで、どうだ、どうせならここまで >>やって偉そうなことをいってみろ、なのである。 そうですね、私もたしかにそこまでやってからこういう議論をしたかった です。その方が論点がすっきりするので。 [#015] でも別に偉そうなことを言いたいわけじゃないんです。 ここには問題が存在すると思うしこの問題はあまりにもないがしろに されていると感じるので少しでも多くの人に考えてもらいたいと思って るだけです。 (こんなたわごとは自己満足の為の自己欺瞞だとの意見に対し) どうでしょうね。そんなつもりはないけどそうなのかもしれません。 自分のことを本当に分かるというのはとても難しいことだと思います。 でも私がどういう人間であるかとか、肉は食べなくても魚やケーキを 食べてるといったことはおいといて議論することはでき ないですか。 例えば、その意見は果物しか食べないという人に対しても有効か? と いった観点から。 あるいはこのサイバースペースで私はそういう人間(:果物しか食べ ません)になってしまえば良いのかもしれません。 昨日(注:'99.1.21かな?)ニュース・ステーションでYAHOO掲示板 のことがとりあげられていて久米宏氏が『それじゃ私が23才の看護婦に もなれるわけですね』と言ってはりました。 ううむ、ちょっとこわい。 [#016] >家畜に身の不遇を認識する知性があるとも思いません。 >動物が自然の中で死ぬ事と家畜として殺される事に深刻な差 >があるとは思えません。彼らが獄に繋がれてる事を感じ、恐怖の >日々を送ってる訳じゃないと思うからです。 問題は認識能力や知性というより動物が苦しんでいるかどうかという一点 だと思います。家畜は苦しんでいると私は確信しております。 (どうして豚はいけなくてマグロならいいんだという意見に対し) 魚ならいいというつもりはないんです。 魚も釣りあげられた時など かなり苦しんでるようにみえますよね。 みえます...とか言ってこの点、確信はありません。結局、家畜は苦しま ないといってる人と大差ないかもしれません。(魚って声を出さないこと でだいぶ損してますね) でも大抵の魚はつかまるまでは、自然の中で生きてるんだから、家畜とは だいぶ事情が違うと思います。 養殖の魚はどうか。。。うーむ。 [#017] 結局、魚までは食べると言うのは今の生活での妥協点というだけでしょう。 続けるということは、なかなか難しいもんです。 無理にがんばってやめ てしまうよりはできる範囲でずっと続ける方がましだと思っています。 そんな程度ですから (ベジタリアンになりたいんなら自分で勝手になってればいいだろ。 他人の事はほっとけよ:という意見に対し) そのようにいわれるのも仕方ないのかもしれません。 何故、黙ってられないかというとこれが動物の権利の問題だと思うからです。 でも『動物の権利』はまだ日本語としてはあまりなじみないでしょうね。 YAHOOの検索カテゴリには入ってますが。 動物には権利はないのか? 人間には動物をこのように扱う権利があるのか? 『かわいそう』だからと言うレベルで議論するなら、 『私は別にかわいそうとは思わない』で終わりかねません。 ここはやはり権利の概念を持ってこねば。 [#018] 人間は確かにテクノロジーの進歩もあいまって、近年になるほど残虐で 大量の殺りくをくりひろげる様になってきているけど、一方で権利の概念 は徐々に進歩しているものと私は信じます。 昔、ローマでは人間とライオンをたたかわせて、喜んで見物してました。 奴隷が廃止されたのはそれほど昔のことではありません。 後の時代からみると、ひどい事でもその当時の人にとっては平気で問題だ なんて思っていないことというものはあるとおもいます。 奴隷制度を殆どの人が当然のこととして受け入れていた時代に奴隷制度に 反対する人がいて、奴隷を持つ事に異をとなえた時に 『お前が奴隷を持たないのは勝手だ。でもおれが奴隷が持つことは ほっといてくれ』 と言われても納得はできなかったのではないでしょうか。 (やっぱり、すごく偉そうです、はい) [#019] そういう歴史の中で近年、ようやく権利という概念を人間のわくをこえて 動物にまで広げようという運動がでてきたのではないでしょうか。 でも、これはとんでもなく高いハードルです。 動物は自分では権利を主張できないから。 『自分で権利を主張できない存在に権利などない』という意見もあります。 でも赤ん坊に権利はないのか。 『苦しみを感じるものには権利がある』 というのが『動物の解放』の著者、P.シンガー氏の見解です。 私も基本的にはそう思いますが、難しい問題です。 魚はどうなんだ、ゴキブリはどうなんだ..... どっかで線引きするのは傲慢なことかもしれません。 でも線を引けないからと言って権利という考え方がそもそも 間違ってるとは思いません。 [#020] 『植物はどうなんだ』 というのはこの問題では必ず出てくる意見です。 私にはその考え方は乱暴すぎる様に思えます。 牛とリンゴを同列におけるものでしょうか。 『牛の苦しみにもリンゴの苦しみにも違いはない』 というのなら殆どシュールだ。 まあ苦しみを基準にしてるのは私の立場ですが。 そりゃ、いつの日か植物の苦しみにも配慮する時代が絶対来ないとは 言えません。 でも万一、そういうことになる時代には、すでに動物の 苦しみには十分な配慮がされていることでしょう。 ものには順序があります。 [#021] (そういうのは食べ物に不自由していない国の人間の傲慢な考えでは ないのか:という意見に対して) どうなんでしょう。 確かに飢えたらなんでも食べるようにはなるでしょうね。 でも飢えてる人からみたら肉なんて贅沢だ、ということも言えると思います。 家畜用の飼料を作るんならそこで人間の食べる穀物などを作った方が余程、 多くの人間を養うことができますから。 (この点については他の方からもご指摘がありました) だから飢えてる人がいるのに肉、食ってていいのかという事も言え なくはないんじゃないでしょうか。 実際、飢えている人がいる原因は政治やら経済やら企業の思惑やらがから みあっててそんなに単純な事は言えないんでしょうが。
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