死刑廃止論 2007/9/1(土) 最近の日本では、凶悪な事件が多発し増加しているように見える。 しかも凶悪な事件があまりにも安易に起こされるケースが目につく。 こうしたことが続くと人々の心もすさんできて、「そういう犯人は 死刑にしてしまえ」という声が優位になる。そういう風潮が次の凶 悪な事件の土壌となる。悪循環であり、どこにも救いが見えない。 死刑制度についてはまず冤罪の問題が思い浮かぶ。あるいは死刑を 執行しなければいけない立場の人間の心的な負担も問題となるだろ う。でもそれよりも根本的なところで死刑というものに対して、疑 問を感じる。 何よりも違和感を感じるのは、国家が「合法的に」人間を殺すとい うことだ。 法律や裁判は極めて恣意的なものだというのを覚えておいた方がい い。ちょっと風向きが変われば、法も裁判も、どの様に運用される か分かったもんじゃない。それは、戦時中の日本を見ても、あるい は現在、不倫や贈収賄を理由に死刑を執行する国があることを見て も分かることだろう。どんな場合であろうとも国家が人の命を奪っ てはならないという原則を作るべきではないだろうか。(現実には 国家をしのぐ様な殺人者は存在しないのだが。第二次大戦の犠牲者 の数を考えても) 国家権力という側面をひとまず置いておくとしても、「人が人を裁 く」ことの危うさというものがある。 本来、人が人を「正しく」裁くことは不可能だ。もし、人を正しく 裁ける存在があるとすれば、それは神ということになるだろう。人 が人を裁くという行為は、社会を維持するための必要悪だというく らいに思っておいた方がいいのではないだろうか。必要悪としての 裁きの結論に死刑が含まれるのは行き過ぎだと思う。 若い頃は、人間の「責任」とは何かということについてよく考えた。 もし、人間の存在は、持って生まれた遺伝的要素と育った環境によ って決定されると考えるなら… 1.遺伝的要素に本人の責任はない。 2.育った環境も本人の責任ではない。 じゃあ、そもそも人間に「責任」なんてものがあるんだろうか…と考 えたわけだ。 今は、そうは考えない。人間にはある程度、自己を決定する能力が あり、責任もあると思っている。 でもなおかつ今でも、ある人が悪事をはたらいたとしたら、どこま でその責任を問えるのか…どこまでが非難すべき要素で、どこまで が同情すべき要素なのか…そんなことは誰にも分からないと思って いる。 立ち読みしただけなのだが、最近、目の不自由な人のために1500冊 もの点字への翻訳をしたという死刑囚について 書かれた本を見た。 刑が確定してから13年間たち、死刑は執行された。周囲の人は誰も 刑が執行されると思っていなかったらしい。 ******** 作家として認められていた、永山則夫氏も事件から30年近く経って 処刑された。 こうした人たちを死刑にする必要が本当にあったんだろうか。 死刑制度があり、死刑判決が下ったからというのは死刑を執行する 十分な理由になるんだろうか。 無期懲役と死刑との量刑に格差がありすぎることが日本の法制度の 問題として長年、指摘されてきた。 いい加減、本当にこれを何と かするべきではなかろうか。死刑を廃止し、終身刑を(あるいはア メリカの様に懲役200年という様な刑を)可能にすべきだと思う。 ******** はるか昔にあるテレビ番組で見た写真が印象に残っている。 番組の内容はほとんど覚えていない。その写真のことだけを覚えて いる。 二人の人間が実の親子の様に仲良く笑って写真に写っている。 女性の方は実の子を殺された母親で男性の方は、殺した犯人だった。 番組でその二人の経緯を詳しく説明はしなかったと思う。 でも、二人の人間が乗り越えてきたであろうものを想像すると、ち ょっと胸が熱くなった。 加害者と被害者がここまで和解できるケースは極めてまれだとは思 う。でも、どんなにわずかでも、その可能性だけは残しておいて欲 しいと思う。 死刑にしてしまったのでは、可能性は残らない。