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過去のゲストブック その5

2000年6月25日〜7月14日


ショウ - 00/07/14 19:40:21

コメント:
生物学的な話をここで懇々とすべきかどうかは迷いますが、”人類の歴史は他の動植物を食べることで栄養を得てきた”から”だから”今も動物を食べるのはあたりまえ”というロジックではなくて、”今も安心して選択しやすい”としましょう。そして、「生物学的に見れば、人間は捕食動物の肉体的特徴を備えていないから肉食に適した動物とは言えない」という反論ですが、これはそうではないでしょう。肉体的特徴という点から見れば、「肉を消化できる消化器官を持っていれば肉食に適していない」とは言えないと思います。また、肉食によって効率のよい栄養の補給ができたおかげで、食物の補給ばかりに時間を取られずにすみ、次の捕食の効率の向上を考える時間が作れたといえます。結果、肉食は人間が文化を築くための選択だったと考えられます。”歴史がこうだったから今も同じでいい”というのは当然言えないと思いますが、それは何にでも言えることですよ。

ショウ - 00/07/14 15:36:50

コメント:
あんやさん、お言葉恐縮です。

あんやさんの主張は理系(技術)の観点だと思います。僕の観点はマーケティングなんでしょう。(仕事はシステム解析とプログラムですけどね)。技術と販売の考え方が異なるのは仕方がないし、あんやさんとは話の骨子は異ならないのでそれなりに論議は意味のあるものだと思っていました。しかし(あんやさんとの議論ではなく)サイト主催者の結論が宗教的なモノだとすると、これは(ひできさんのおっしゃるとおり)不可変なものですもの。それで、(嫌悪感というよりも)ちょっとがっかりしたというのがあります。
僕の発言にトゲがあるのは、前回の発言のように「動物愛護に反対」とか「動物愛護なんて言ってるヤツは偽善者だ」という声が多いからでしょうね。動物愛護なんて、反対するもなにもないでしょう?こんな大きな概念の道理を、まるごと批判する者がいることにとてもハラが立ちます。少なくとも当たり前の道理を解釈すれば、こんな発言などキワモノに見えて当然です。UGサイトじゃあるまし...。しかし、実際はずいぶんと違うことがわかりました。かなりマトモなレベルな人がこんなコトを言ってるんですよ。当初は意味がさっぱりわかりませんでした。自身のわずかな道義的な積極性を表現するためでしょうね、あまり知識もなくユニセフやWWFの活動には微弱ながらも参加したりしてるのですが、動物愛護に関しては、あちこちのサイトの発言を見てなんとなく解ることがありました。「動物愛護」を旨としている人達に論理的なビジョンが感じられず、いかにも過度な発言をしているように感じられるというコトです。そういった姿勢に対抗している人は「動物虐待」も容認できるという強硬な姿勢になったりもします。動物愛護論者にとって「味方」と感じる側が、「敵をつくる種をまいている」ように見えるワケです。しかも、その「味方」は「味方の中にも敵をつくりだす論理」を展開しているような感じさえしました。歴史に徳川綱吉を持つこの国では、納得のいかない動物愛護に反対する水戸光国の立場として、社会的に優位な気分になるのかもしれませんね。

> 動物を殺すことに何も感じない人は、ショウさんもお嫌いなのですよね?
ここに僕が持ち合わせているのはあたりまえ程度の感覚だと思ってます。自分の食欲や最低限度の必要を満たすために殺される動物がいることは仕方のないことだと思っています。人類が科学を進歩させるときには「動物に対する愛情」に関心を持つべきではないと思っており、人類の倫理のあり方としては「動物に対する愛情」が必要不可欠なものだと思っています。そして、人類が文化や文明を進歩させるときには倫理が必要だと思います。個人的に必要以上の解釈があるとすれば、僕は2匹の犬を飼っていてこの子達をこよなく愛しています。だから「毒入の餌を食べさせられて殺されるとたまらんなぁ」と思ってるくらいですね。

> ショウさんは倫理や宗教に起因するものだとお考えでしょうか?
思います。私見ですし、生理的な要因の方もいると思いますが、大多数の方が「かわいそう」と思うと思います。

> 倫理や宗教に対するショウさんの反感や嫌悪感とも...
これは誤解です。僕は哲学も宗教も好きなんですよ!

必要もない動物を育てて殺すという無駄なことをするために大地を無駄遣いするな、という主張...
この主張は、文化や文明の進歩にとっても倫理のあり方としても合理的だなぁと思っていますよ。こういった認識が必要以上に薄いために、多少の過度な訴求が必要なのもわかります。でも、実際はこれまで人類が歩んできた歴史から考えれば、そう簡単に飲み込めるものではありませんし、「いきすぎだ」と解釈されるのは疑問です。この主張に関しての論議は不毛な要素を含んでいると思われます。

> 食肉ということから話がそれてしまうから...
そもそも僕の論点は、動物愛護のアプローチ方法にあったんです。あんやさんに詳細な立証をしていただきたくなかった理由は、科学の定義や栄養学に御苦労を頂きたくなかったからです。「デメリット」と言ったのは、少し投げやりですいませんでした。これは、FAQに近い意味なんです。これから、ホントに菜食主義が注目されるべきであるのであれば、菜食主義に知識のない方にはマルかバツかの論議よりも注意事項やこんな人にはすすめられないといった認識を深めなければならないということです。すべての人に100%問題のないものではないでしょう?

ムッチー - 00/07/14 09:39:51

コメント:
マクドゥーガルプランは完全自然食健康法と言う名の本でしっかり理解しました。 それはすばらしい本です。食事の写真は、自分を変えたい人のダイエットと言う名の本に載ってて、とても素敵な食事です。 ライフスタイル革命はフィットフォーライフという考え方でマクドゥールプランと同じような理論。果物が多いほど良いと主張していることくらいが違いです。 どちらもわたしの宝物的な本。バイブルともいえます。 癌の克服。肥満の開放。食費節減。簡単家事。花粉症は完全撤退できた。乱視は治った。など、いいことばかり。その上、肉の生産を止めれば、その肥料の食物で地球から飢えはなくなり、家畜の放牧に切り倒す森林の伐採を止めれる。よって緑が豊かになる。放牧場は変えないといけないので森林伐採がすごい。 動物は言葉がしゃべれないだけ。心は人間と同じ。同じ赤い血を持ってる。熱いも痛いも 苦しいも寂しいもいっしょ。インコを飼ってるけど、彼らは人間的な連中である。 食べないでも生きれる。食べない方が長寿。ならなぜ食べるのと思う。肉食は経済バランスのためにむりやり組み込まれた栄養学のこじつけ理論。 献血結果はベジタリアンになってから、栄養値がよくなりました。 精進料理(寺の宿坊で食べれる)やインド料理(ベジの)を食べると、肉食よりヘルシーで最高においしい。肉はいらない。アボガドはトロの味がするし。 ベジタリアンのおいしい料理はぜひ、精進料理とインド料理から体験してね。

ムッチー - 00/07/14 09:20:35

コメント:
マクドゥーガルプランの本あります。 河出書房新社の完全自然食健康法(3900円)で完訳は藤本エドワード氏 又、この理論で 自分を変えたい人のダイエット(保健同人社で藤本エドワード氏監修で1200円くらい)・・・料理写真がきれい。 キングベアー出版のライフスタイル革命(松田麻美子氏訳)2500円くらい、も 似た理論。果物が主体だけど、同じ感じの理論。ナチュラルハイジーンともフィットフォーライフともいう。

あんや - 00/07/14 03:22:33

コメント:
marikoさん、生まれてからずっと菜食(乳製品も卵も食べない)で健康的に過ごしている人がたくさんいます。ただし、これも、彼らのほぼ全員がタバコも酒もやらないし、飲み物も100%果汁のジュースやディカフ(カフェイン抜き)のコーヒーや紅茶しか飲まず緑茶もそうしょっちゅう飲んでいるわけではなく、コーラなどの糖分が多いソフト・ドリンクは飲まないし、と、体に悪いものは体内に取り込まないから、とか、また、ヴィーガン(動物性のものをいっさい食べない菜食主義者)なので自分たちは健康だという思いこみによるバイオフィードバックが作用している、など他の要因もあるのかもしれません。                                                                                                                                                                                                        必須アミノ酸は、動物からとったもののほうが摂取効率がいいという神話がまだまかり通ってるのが残念です。そもそもこの神話が生まれたのは1971年に発売された Diet For A Small Planetという本で、動物性タンパク質が絶賛されたせいですが、この本の第10版で著者Frances Moore Lappeは当時のデータが不十分であったために大きな過ちを犯したことを謝罪するとともに、野菜だけの食事でも必須アミノ酸を含むタンパク質が十分に取れることを付け加えています。動物性タンパク質の神話が生まれたのは植物のみの流動食を与えたラットの子供より同じ流動食にリシン(必須アミノ酸の一つ)を加えたものを与えたラットの子供のほうが成長が早かったという実験に基づいたものですが、ラットと人間が必要とする栄養は違うのでこの実験結果があてにならないことが後に証明されています。タンパク質の吸収率も、肉や魚が85%ー100%、卵 97%、ミルク 81%、小麦 95%、トウモロコシ 90%、大豆 90%、他のほとんどの野菜も約90%ですから、植物性タンパク質が激しく劣っているわけではありません。Diet For A Small Planetの20th Anniversay Edition(20刷り記念版) や、The McDougall Plan の日本語訳があるといいのですが。                                                                                                                                                         人間が普通に食べる植物からは摂取できないのはビタミンDとビタミンB12だけですが、ビタミンDは通勤や通学などの間に普通に外に出て太陽に当たっている人なら身体が作ってくれるのでわざわざ摂取する必要はありません。日本海側に住んでいて冬はなかなか太陽が出ないというのでしたらビタミン剤(もちろん動物性のでないものが存在します)で補給すればいいでしょう。ビタミンDを補強した豆乳やシリアルなどもいいでしょう。豆乳やシリアルを買うときに成分表示を確認してください。ビタミンB12は糖蜜(精糖するときに原糖から生じる褐色のシロップ)で発酵させた酵母や藻をベースにしたビタミン剤などで補ってもいいでしょうが、既に14年も動物性の食事をしてきた方なら体の中にたまっているビタミンB12だけであと10年ほどはもつでしょうが、ビタミンB12を補強した豆乳もあるので、豆乳を買うときに成分表示を見てください。(普通の大人が一日に必要なビタミンB12は3から4マイクログラムで、ケロッグのトータル・シリアルには4分の3カップに6マイクログラム、ケロッグ・コーン・フレイクには4分の3カップで1.5マイクログラム、グレープナッツ・シリアルには半カップで1.5マイクログラムビタミンB12が入っています) カルシウムも植物性のものだけで十分まかなえます。鉄分は、植物に含まれているものはノン・ヒーム・アイアンと呼ばれる種類のもので、タンニンやカフェインに摂取を阻まれビタミンCが摂取を助けるのでお茶やコーヒーを飲まず、オレンジジュースやイチゴジュースなどと一緒に食べるといいでしょう。鉄分が多く含まれている野菜はにはほうれん草やインゲン豆などがあります。これでも不安でしたら、少なくとも1992年以降のアップデイトされた知識を持っていて、日本より菜食に関する研究がはるかに進んでいるイギリスやアメリカの文献が読める栄養士の方にお聞きになるか、このHPのリンクにある日本ベジタリアン協会に相談なさるのもいいと思います。                                                                                                                                                         marikoさんは「そういう小さなことからやってみようといったほうがいい」とおっしゃっていますが、この掲示板の管理者は常にそう言っていますし、私も「できることから始めよう」というのが一番だと思います。急には変えられない習慣を徐々に変えていって、近い将来marikoさんの”できること”の中に肉食を控えたり動物実験をしている化粧品を避けるということを入れるよう努力していく、というのがいいのではないでしょうか。肉を毎日食べている人なら、最初は2日に一度しか食べないようにして、それに慣れたら徐々に肉を食べる率を減らしていくようにするとか、そういう小さなところから始めればいいでしょう。                                                                                                                              ”人類の歴史は他の動植物を食べることで栄養を得てきた”、”だから今も動物を食べるのはあたりまえ”というロジックはどうでしょうか? 生物学的に見れば、人間は捕食動物の肉体的特徴を備えていないから肉食に適した動物とは言えない、と反論することができます。 他の捕食動物とは違って、人間は獲物を捕るほど速く走れるわけでもないし、素手で獲物を殺すだけの 腕力もないし、獲物の肉を引き裂く威力があるほどのキバも爪も持ち合わせていません。(それを道具で 補ったのだ、というのは人類学のロジックのような気がします。)  人類の歴史を引き合いに出すのでしたら、道具を使い始めたばかりの人間(の先祖ホミニッド)は狩りをして動物の 肉を食べていたわけではなくて、既に他の捕食動物が殺した動物の骨を砕いて中の骨髄を食べていた こと、肉を保存する技術がなかった時代はそもそも肉はそうしょっちゅう食べなかったことなども挙げて、 歴史的に見て人間が食べるもの中で動物からとったものが占める割合はは2割ほどなので、 現代人は動物からとったものを食べ過ぎだ、という方向に持っていくことができますし、過去と現在を比較して、昔はビタミンB12やビタミンDの非動物性代替品を作る技術がなかったので動物を食べることが必要だったが、今は違うので動物性の食べ物は必要ない、と現在に焦点を当てる言い方も可能です。だから、”歴史がこうだったから、今も同じでいい”というロジックは私には納得がいきません。                                                                               ショウさん、ニュアンスにこだわらないと、あげあしをとられたり、誤解を助長する恐れがあるのでこだわりました。掲示板で話をするときの宿命のようなものだと私には思えます。しかし、不愉快に感じられたのでしたら、申し訳ありませんでした。”人間のエゴ”の件ように議論のための議論になってしまうことが多いのもインターネット上でのやりとりの宿命かもしれません。私は”人間のエゴイズム”の配慮のなさの対象は人間だけに限るとは思っていないので、後半の議論は”議論のための議論”です。こういう”議論のための議論”にさらに反論することの不毛さに気づいて反論をひかえてくださったショウさんに深く感謝しております。この前の私の投稿は、「工場的家畜制度によって環境が破壊されているのですから、このツケがやがて地球上の人間全員にまわってくる」というところまででとどめておくべきでした。エスカレートしてしまい申し訳ありませませんでした。重ねてお詫びいたします。                                                                                                                                                                ”あまり客観的な事象を持ってこられても、その逆の事象も認識しないと意味がありません” とお書きになっておられますが、私はまさにそれを言っているのです。工場的家畜の悪影響のデータを並べ立てたところで、その気になって様々な分析法を使えばそれとは逆のデータをはじきだすこともできる でしょうだから、そういう客観的な事象を羅列して、「だから肉食をやめよう」と説得するよりも、「動物がかわい そう」という説得法をとったほうが分かりやすいでしょう、ということです。客観的データを提示されてもピン とこなくても、感情に訴えればピンときてもらいやすい、ということです。 肉食反対者にどういう種類の人、あるいは団体がいるのか分析をしたことはありませんが、工場的家畜の廃止という同じ目的を持っているかぎり、思考形態、方法論の組立方は私は問いません。それぞれが自分が得意な説得法を用いて合法的な方法で説得すればいいのではないでしょうか。 ただ、ショウさんの分類の主旨は分かります。私とほぼ同じ考え方で工場的家畜制度に反対している者たちはなぜかいわゆる理数系の人間ばかりで、倫理や哲学の話題は苦手で観念的な議論には弱い連中が多い。私個人は親しい友達がマイクロチップを作るためのクリーン・ルームで化学物質にさらされたせいで20代でガンになったことがきっかけで、大企業の政治力(化学物質とガンの関係をもみ消すためにありとあらゆる手段を講じてきました)に脅威を感じ、汚染や有害廃棄物に関心を抱くようになり、そこから環境、生態系に広がって、工場的家畜制度へと行き着いたので、○○愛好家という分け方をするのであればおそらく環境・生態系保護愛好家、大企業の政治力濫用反対思想愛好家ということになると思います。工場的家畜制度における家畜の扱われ方に嫌悪感を抱くのは、ごく普通の人間の神経を持った人なら、当然のことで、倫理や宗教とはまた別なものだと私は思います。動物を殺すことに何も感じない人は、ショウさんもお嫌いなのですよね? 動物を殺すことに”何か”(イヤな感じ、正視できないという感情など)を感じることを、ショウさんは倫理や宗教に起因するものだとお考えでしょうか?  私はそうは思いませ。こう書くと私が倫理や宗教に反対している人間のように思われるかもしれませんが、そういうわけでもなくて、私個人が無宗教で倫理観が強い人間ではないというだけであって、他の人が強い倫理観を持っていたり、なんらかの宗教を信じていてもそれは私がとやかく言うことではないと思っています。倫理や宗教に対するショウさんの反感や嫌悪感とも思えるような強いネガティブな感情はいったいどこから来ているものなのでしょうか?                                                                                                                                                                                                           私が工場的家畜制度に反対している理由は動物の権利から入ったのではありませんが、動物の権利派の人達が動物の権利を先行させているとは思いません。肉は人間にとって不必要だ、という大前提のもとに、必要もない動物を育てて殺すという無駄なことをするために大地を無駄遣いするな、という主張のどこで動物を優先させているとおっしゃるのか、私には分かりません。 動物の権利を主張すれば、おのずから工場的家畜制度は崩壊してよりよい自然環境を取り戻すことができ、世界の飢餓をなくすことにも貢献できるのですから、動物の権利の主張はそっくりそのまま地球環境の生存権とアフリカなどの人々の生存権につながってきます。肉を食べたいから食べるという人の”えり好み”をする権利より、生態系全体の生存権と人類全体の生き方のレベルを上げる権利を優先させることに、私はなんの疑問も感じません。 もしかして、植物の権利よりも動物の権利を先行させている、という意味でしょうか?だとしたら、それに対する私の答えは既に書いております。肉食を辞めることによって結果的により多くの植物の命を救え、大地にかける負担も減少できるという”科学的” :-) なデータがでています。何度も書いていますが、肉食を辞めれば、結果的に穀類の消費も減るので、耕作地も減り、牧場として使われている土地も減るため、野生生物の生息地が増え、昆虫の生息地も増えるのです。                                                                                                                                                                                         日本で肉の話をするときに倫理を持ち込まない理由は既にお答えしています。しかし、部落問題に触れたくない、見て見ぬ振りをしたい、と逃げているわけではありませんので、どうぞ誤解しないでください。工場的家畜制度の話をしているときに、そこまで話の枠を広げると別の方向から非難を浴びて食肉ということから話がそれてしまうから、それは避けたいと思っているだけです。                                                                                                                                                                                          デメリットを議論すべき、とお書きになっておられますが、肉食のデメリットを議論すべき、ということでしたら、それはもう十分やっていると思いますが、まだ足りないでしょうか? それとも、菜食のデメリットを議論すべき、という意味なのでしょうか? だとしたら、私はずっと菜食なので、菜食しか知らないからなんのデメリットも感じたことがないので、どういうデメリットがあるのか教えてください。デメリット対象法をこの掲示板でみんなで考えましょう。                                 

ぴかりぃ - 00/07/14 00:03:42

コメント:
改行効かなかったので、再送信します。→  http://communities.jp.msn.com/NATURALLIFELOVER  

ぴかりぃ - 00/07/14 00:01:23
ホームページアドレス:http://www2.neweb.ne.jp/wd/mouse/
電子メールアドレス:veg@excite.co.jp

コメント:
こんにちは。 動物実験についての討論の場をつくって下さった方がいるので、 紹介しようとやってきました。↓ここです。 http://communities.jp.msn.com/NATURALLIFELOVER でもなんかすごく濃い議論になってますね・・横入りしてすいませんでした。

AMOK - 00/07/13 15:24:23

コメント:
全ての生物は人間にとって有用な資源です。資源の有効利用のための環境保全 が非常に重要です。動物愛護って一体何なんですか。  昆虫嫌いの人っていますよね? 皆さんの中にもいるんじゃないですか?  動物愛護だとか言っときながら昆虫やその類を殺しまくってるんじゃないの?  

ショウ - 00/07/13 10:52:49

コメント:
ああ...僕は勘違いしていたのかもしれません。
「動物の権利」をもう一度読み直してわかってきました。
このサイトは動物愛護について宗教的な教えを説いているのですね。
もしかしたらひできさんもそこに気付いたのか...。

ここまで思いつきませんでした...。


nyatete - 00/07/13 08:02:40

コメント:

話の流れに関係ないことで恐縮ですが、以前この掲示板で紹介して頂いた
恵比寿のベジ・レストラン "sofa" が昨日、行ったらつぶれちゃってまし
た。5月いっぱいで閉店してしまったみたいです。

とても美味しかったのに残念です。たしかに客の入りはあまり、よくなか
ったみたいだけど。。
とりあえずお知らせまで。


ショウ - 00/07/12 11:05:43

コメント:
「倫理」や「好み」からくる考え方は哲学や宗教みたいなもので、その中心に動物を据えてしまうと狂信的なものを感じます(もちろんそれだけではありませんので、これはちょっとイヤミですが...)。個人の趣味として持ち合わせることには問題はないのでしょうが、倫理から動物愛護を訴えたり、(生物学的な)動物愛護活動がこれと結託してしまったりすると、「動物愛護」そのものが狂信的なものであると見られがちになると思います。
僕は、インターネットの世界でこれほど「動物愛護」という言葉が嫌われているとは思いませんでした。僕は「犬のアタマを撫でる」行為すら動物愛護と呼べるものだと思っていましたから、「動物愛護に反対」と言われると「犬のアタマを撫でる」という行為にすら反対している人がいると思えてとてもショックでしたし、これでは思春期の子供達は勘違いを起こすだろうと思いました。どうして「動物愛護に反対」する人が多くいるのかと思ったら、たぶん「それは動物愛護とは呼べない!」という言葉が横行しているからだと思いました。もちろん、飼い犬や飼い猫を捨てる行為は動物愛護とは呼べませんが、動物愛護はそれ以上に門戸の狭いものになっていると思えました。これは、巷に異なる角度からの動物愛護観念を持って矛盾した議論が起こっているからではないのでしょうか。あちこちで収集のつかないヘンな論議が起こりすぎています。
科学は説得力を持ちますが、哲学や宗教は同調するもの以上に反対される者を生みます。あんやさんの「意見」はともかく、おっしゃっている「科学」は、人を説得できるモノでしょう。しかし、このサイトではみゅうさんやひできさんの発言のような内容の理解を拒んで敵にしています。あなた方の狂信的な信条が「動物愛護の門戸」を狭めて「反対者を生んでいると」と思えませんか?あんやさんは、少なくともこの部分に関わる発言は避けてはいるようですが、動物愛護の基盤を支える人だという解釈から援護はするべきではなかったのでしょうか?

くるみ - 00/07/11 16:42:54

コメント:
私はー猫も犬もダイスキなんでぇー捨てるトカは考えられません。 すっごくかわいそうです。 そのこ達の気持ち考えてあげてください。

- 00/07/11 14:37:30

コメント:
こんにちは。私は現在、大学で畜産について勉強しています。皆さんのお話は大変興味深いものです。(といっても、まだ全部読んではいないのですが・・・)私はこれから、農業、畜産の立場から動物福祉ついて考えたいと思っていたので、皆さんの意見も参考にさせていただけたらと思っています。

ショウ - 00/07/11 11:29:17

コメント:
僕の知り合いの栄養士に言わせると、「あんやさんの発言の是非は問えないがとてもキワモノ的」に感じるそうです。それはそうでしょうね。一般的に認知が進んでいる内容とあなたがおっしゃっている内容はズレが大きい。僕は、はっきり言ってあんやさんのおっしゃっている方が正しい方向なのだろうと思いますよ。しかし、立証するためだけの理論なので捕らえどころがなく消化しにくいものがあります。肉食は、これによるデメリットも多くの人が知っています。そのデメリットを超えるメリットを感じるワケです。あなたがたも本気で菜食主義をすすめるのであれば、そのデメリットも充分に論議すべきです。そうでなければキャッチセールスや健康諸品などと同じように解釈され、いつまでも特殊なことであり続けるでしょうね。

> ここで倫理に目覚める人がいればそれはそれでいいと思います。 僕には動物の惨殺死体や虐待を受けている場面を、不衛生な厨房と同じように捕らえることはできません。倫理という角度で目覚めることはよいことであり、それには僕も何の問題も感じません。問題は、その倫理観念が動物愛護でいっぱいになってしまうことです。動物のことが先行した倫理など通用しないばかりでなく反感をかうのがオチです。同調できる賛同者を得ること以上に、根強い反対意識を持たせてしまうでしょう?「最も効率のよい方法を選ぶ」というのは、手段を選ばないというレベルまでいくのでしょうか。倫理を使うことはハイリスクだと思いますしねぇ...。(生物学的な)動物愛護からも、かなりの距離を感じてしまいます。
「人間のエゴイズムという解釈」に関してですが...。
この理論にはちょっと無理を感じます。いえ、あなたが根拠としている例は、疑う以前に「そうである」と解釈してもいいのですが、これを根拠に「配慮がない」という解釈を他の人に促すべきかどうか...。うーん、ちょっと「手段を選ばない」的な無理を感じますし、失礼ですが、これまでのあなたの意見もすべて「卵のカラをつついている」的に見えてきてしまって、少し虚しくてショックです。この部分の反論は今回はやめておきます。

重ねて失礼なのですが、なんとなくですが、あんやさんって動物愛好家ではないのでしょう?
「動物のことを考えましょう」という切り口で、多くの人に賛同を得るのが根本的に重要なことだと思います。ここには、いろんな要素があるため「わかってもらいたいという姿勢」というのが、何をなくしても大事なのだと思うのですよ。どんなに優れた理論でも提案でも「和」や「理解」が得られなければダメです。これはたぶん「人類の滅亡」をかけたとしてもそうだと思います。「犬」と「ミミズ」の絶滅を天秤にかけた時に、人類が「犬」を選択したとしても、ある意味ヤムを得ないことだと思います。ここでやるべきことは、「間違いなく正しいから自分の責任で犬の絶滅を選択して人類を救う」ことではなくて、「とにかくわかってもらう方法を考える」ことだと思うんですけど...。

ショウ - 00/07/10 21:43:42

コメント:
marikoさん。そうですね、動物を殺すことに何も感じない人って僕もとても嫌ですよ。
でも、人類の歴史は他の動物や草木を食べることによって栄養を得てきましたものね。「動物のために肉を食わない方がいい」と言われても、ここから先の人類がお肉を食べないで本当にやっていけるのかどうか不安ですよね。しかし、動物を殺して食べなくてもちゃんとバランスよく栄養が取れるのかもしれないそうです。どうしてそんなことが今はできないのかというと、お肉が売れなくなるとお肉屋さんや牧場の経営者が困るので、政治家に頼んでお肉を食べなくてもいいという人を黙らせてる可能性があるんだそうです。だから、ホントのことはどうなのかわからないそうです。まだ動物は食べられるために殺されています。とりあえず、今は食べられるために殺された動物がゴミ箱に捨てられないように、いっぱい食べて勉強やスポーツにがんばってください!

あんやさん、「科学が相反する二つのこと...」に関しては、上手く理解できていないですいませんでした。「オール・オア・ナッシングではない(YesかNoだけではない)」という言葉を用いられていたので、「植物の点は矛盾しているが、それだけで活動に問題があるとはいえない。」というように解釈していました。すいません。「科学は資本主義で汚れたモノ」というのは間違いなく解釈していたつもりです。自分の理解をうまく説明できないですいません。
あまりニュアンスの部分にまでこだわることはないと思いますよ。僕は動物愛護反対派ではありませんし...。それに、あまり客観的な事象を持ってこられても、その逆の事象も認識しないと意味がありません。特徴的な事例であるとしても、それはなんだか健康食品の押し売りを思い出してしまいます。僕も、あまり広域に至る内容を漠然と突き付けているようでしたら気をつけますので、外野がいる土壌ということを少し意識しましょう。
今、僕が知りたいのは、動物愛護の活動に倫理を使うべきかどうで、あんやさんが倫理を使ってないのであれば、倫理を使うことをどう思っておられるのか、倫理を使ってヨシとされるのであれば、それは倫理を使うことも肯定できるからなのか、それとも人を寄せるためにはヤムを得ないことなのか...です。(先の動物愛護に関する3つの主張に関しても、よろしければ御意見をいただきたいですね)

mariko - 00/07/10 18:45:29

コメント:
はじめまして。私は、中2の女子です。中学生の意見ってあまり無いと思うのでいっちょまえにかかせてもらいます。 まず、人間にとって肉を食べなくなる事がぜんぜんOKかと言うとウソだと思います。 とくに私たち子供や成長期の人間にとっては欠かせないものです。でも、だからといって動物を殺していい理由にはなりません。 そこで私が考えたのは、いい肉を食べるためだけのために動物に苦を与えたり殺したりしないで、質が悪くなっても自然死してすぐのものを食用としたりすればいいんじゃないかと思うんです。そうすれば肉を食べる事が少なくなり野菜を多く食べるようになり体にもいいんじゃないかなぁ。 でも、もちろん自然死したってことはどこかが悪いってことだからそのまま食べて平気なわけは無い。 またまたそこで考えたのは、肉を機械や科学によって毒素を取ったり、質をよくしたりするってこと。(科学だけどクローンはだめ。)これの実験で動物を使うのも絶対だめ。 こんな事今の世界の科学力では、簡単な事だと思うし、そんな肉いやと思う人も、動物が死ぬのと比べたら・・・。 (宇宙に行く前に、こういう問題に取り組みすぎるくらい取り組めばいいのに。) でも私は、こんなこと言ってるくせに今までどうり肉を食べるし、動物実験をしている会社製品も買う。習慣は、急にはかえれない。ただ、上に書いた事が現実になるように努力するし、動物にやさしくしたり、募金したりする。そういう小さな事からやってみようといったほうがいいのでは・・・。

あんや - 00/07/10 17:01:51

コメント:

「科学が相反する二つのことを同時に支持できないのでしたら」というの
は、「科学が現時点での不完全なものではなくて、一つの結論しか出ない
という完璧な科学になったら」という意味で使ったつもりですが誤解を招
いたようです。

「オール・オア・ナッシングではない」という主張は、「後回しになって
も必ず植物も救われる」ということに他なりません。工場的家畜制度を廃
止すれば、”殺される”植物の全体量が減りますし、オオカミやコヨーテ
やキツネを救えれば、天敵がいなくなって増加したウサギやシカが草を食
い尽くし生態系が乱れるということもなくなり、草も絶滅しないで済むわ
けですから。
動物の権利を主張する団体は生態系保護団体と協力していますから、湖の
底や川底に生息する水草の保護も訴えています。(家畜の排泄物を川に流
すことによって、川や湖に藻が増えすぎて、太陽光線を遮断し、養分を奪
い、川や湖の底にはえる水草が死に、生態系を崩している)

”科学は資本主義で汚れたモノで、栄養学も主観的にゆがんだ部分がある
ということ”ではありません。少なくともそういうつもりで書いたのでは
ありません。
科学自体が資本主義で汚れたモノ、というのではなくて、日本やアメリカ
のように金権主義の国々では金権とうまくつながらない限り科学も機能し
ない、というのが現実だ、ということです。
私は、決して科学自体が悪いと言っているのではなくて、金権政治が必ず
しも地球の将来にとって役に立つ科学を選んでくれるわけではないし、仮
に政治が英断を下して地球の将来に役立つ科学を選んだとしても、大衆の
コンセンサスを得られないと意味がない、ということです。L.A.の地下鉄
がそのいい例でしょう。石油業界からのいやがらせをものともせずに地元
政府が英断を下して地下鉄を作ったものの、乗客がほとんどいなくて、わ
ずかな乗客はほぼ全員がバスから地下鉄に乗り換えただけの人々です。
大衆の意志を無視した科学が先行しても、よい結果は生まれない、という
ことです。

栄養学が主観的にゆがんだ部分がある、というのは事実ではありますが、
このあいだの私の返事ではそういうことを言いたかったのではありません。
どうも、自分が頭の中で思っていることを文章にして伝えることがうまく
いかず、はがゆいものを感じてしまいます。

アメリカでは肉/酪農・養鶏・養豚業界が強いから、この業界から資金を
提供してもらって研究をしている学者たちが”肉や乳製品から取れるアミ
ノ酸のほうが有益だ”といううがった研究結果を出し、それをテレビのC
Mなどで広めている、ということは確かに言えます。アメリカでは小児科
医師会が母乳にまさるものはないと発表しても、テレビで頻繁に流される
酪農業界のCMにはたちうちできず、いまだに牛乳のほうが母乳より優れ
ていると誤解している母親が多い。この業界は家畜の飼料として莫大な穀
物を消費するので農家にとってもお得意さまだから、農家も文句は言わな
いし、なにしろ、タバコ業界、保険・製薬業界、NRA(全米ライフル協会)、
石油業界と並ぶ5大ロビーを有する政治力のある業界ですから、アメリカ
人の健康を管理するはずの政府の機関FDA(食品医薬品局)も、この業界
の研究発表にたてつくことはめったにありません。

しかし、私が言いたかったのはそういうことではなくて、遺伝子マップが
できたばかりという今の段階の栄養学や医学では解明できない部分が多い
ので、肉食をうんぬんするよりどころとして現時点での科学はあてになら
ない、ということです。肉食者と食肉業界が主張する「必須アミノ酸は動
物性タンパク質から」という神話は既に1954年の”アメリカン・ジャ
ーナル・オブ・クリニカル・ニュートリション”に発表された論文で覆さ
れているし、肉食や乳製品や卵の摂取と高血圧、高コレステロール、結腸
ガン、乳製品摂取と子宮ガン、骨粗鬆症の関係も多くの学者が発表してい
ますが、今日の科学が明日も通じるというわけではないですよね?卑近な
例で言えば、肉食・乳製品と卵の摂取とハイ・コレステロールの関係は、
イタリアのリモーネ・スル・ガルダに住む一族の血液検査で発見された特
殊なタンパク質、A-I ミラノ(コレステロールに対する免疫となる)を製
薬化することによって一掃される日が近いとまで言われていますから、今
の時点で「肉食はハイ・コレステロールを招く」と”科学的”な発言をし
たところで、A-Iミラノが市販された後は今の”科学”は通じない、とい
うことです。

また、プラシーボ効果やポジティブ・シンキングの効果が栄養学にどれだ
け影響をもたらすかも、まだ解明されていません。今でこそストレスが高
血圧の原因の一つであることを疑う学者はいませんが、70年代にはスト
レスという心理状況が高血圧という肉体的現象と関係があると述べる学者
たちは、”非科学的だ”と一笑にふされていたのです。麻酔薬の代わりに
催眠術を使うことはアメリカではやっと保険でも認められるようなったし、
名のある病院でも高血圧の治療の一部として瞑そうや深呼吸などの呼吸法
を教えるリラクセイション・テクニックを教えているし(これを始めたの
は、ハーヴァード大学の医学者ドクター・ベンソンという人ですが、彼は
今は祈りが治療に影響を及ぼすかどうかという研究をしています)、イン
グランドでは子供たちにばい菌と戦う細胞をアニメ化した映像を見せ、先
生が「身体の中で細胞がばい菌と戦っているところを想像しましょう!」
と言って、子供たちにバイオフィードバックをさせて実際にばい菌と戦う
細胞を増やすという試験的な試みをしている幼稚園がありますが、脳の働
き(思考)や心理状況が肉体に影響を及ぼすという臨床結果は出ていても、
何がどのように作用するのかということろまでは分かっていないので、現
代の科学では肉食の影響を語れない、ということを言いたかったのです。



”単に血みどろで気持ちが悪い、ということで共感を得ようとしているの
であれば疑問を感じる”ということですが、地球の環境のために家畜制度
が悪影響を及ぼしているから肉食を控えてほしい、とロジックで説明する
よりも、このほうが手っ取り早い、ということです。一日も早く工場的な
家畜制度をやめることがベターな生態系につながるのですから、最も効率
のよい方法を選ぶことに私は疑問は感じません。
「アメリカでは工場的家畜制度で家畜がふえすぎたために、毎年340万
エーカーの牧草地帯が砂漠化している」とか、「アメリカの全人口をまか
なえる穀類の5倍もの穀類がアメリカの家畜の飼料となっている。また、
1エーカーの牧草地からとれる肉は165ポンドだが、ポテトなら2万ポ
ンド生産できるから、肉食は限られた大地の利用法という意味でも効率が
悪い」とか、「1ポンドの牛肉を得るのに2500ガロンの水が必要だが、
肉食者が一ヶ月で食べる量の肉を生産するのに必要な水より遙かに少ない
量の水で人間1人が一年で食べる量の野菜や穀物を生産できる」など、科
学的な事実を並べるよりも、血みどろの真実を見せたほうが肉食に疑問を
抱きやすいという現実がある以上、この方法をとる人がいても私は反対は
しません。工場的家畜制度をなくして肉食を減らそうという同じ目的を持
っている人々がそれぞれ自分にとって説得しやすい方法で他の人々を説得
することのどこに疑問を感じられるのでしょうか?

医学的データで責める、というのもさほど効果がないことが実証されてい
ます。
工場的家畜制度はできる限り小さな土地で可能な限り大量の肉、卵、乳を
生み出そうとするものですから養豚場や養鶏場、乳牛置き場はぎゅうぎゅ
うづめの状態で病気が発生しやすいので、動物たちは常に抗生物質を与え
られているため、抗生物質に抵抗力のあるバクテリアが生まれることもあ
りますよね。一番記憶に新しい例では、去年の11月にデンマークで起き
た豚肉中毒。幸い死亡者2人、中毒にかかったのも25人で済みましたが、
このときはアメリカの疾病管理センターの関係者たちもフルーロクイノロ
ンズという最も強力な抗生物質が効かなかったことに愕然としていて、欧
米ではかなり大きくニュースでとりあげられましたが、だからと言ってそ
れに怯えて豚肉の摂取量が減ったりはしませんでした。
95年に狂牛病が流行ったときも「狂牛病が流行っているから牛肉を控え
ろ」という言葉だけでは牛肉の摂取量がたいして減らなかったのに、テレ
ビのニュースで牛が殺され、解体される現場の映像が流れて初めて牛肉の
消費量が減ったことを考えると、この方法の影響力を無視するほうがおか
しいと私は思います。


それに、人間が自分の口に入るものがどういう行程で作られるかを知るこ
とは決して悪いことではないのではないでしょうか。レストランの厨房が
ゴキブリだらけで、しかも意地悪なウェイターが料理に唾をかけたところ
を見たら、その料理は食べたくないと思うのは当然のこと。食べたくない
と思うのは倫理からではなくて単なる嫌悪感からでしょう。ごく普通の人
間がレストランで平気で料理を食べるのは、厨房は政府の基準にかなう程
度は衛生的でウェイターは料理に唾をはいたりしない、という了解のもと
でのことですが、工場的家畜に関しては、こうした了解もなにもなく普通
の人間は何も知らない。その何も知らない普通の人々に真実を教えること
になぜ疑問を感じられるのですか?
ごく普通の人々は牛は牧場でのんびり暮らしているという妄想を抱いてい
て、乳牛は殺されないと思っているようですが、工場的家畜制度では、乳
牛はボウヴァイン成長ホルモンを与えられて常に人工受精により妊娠させ
られていて、ほぼ毎日ミルク絞り機に電気ショックを与えら、3−4年後
には肉牛として殺されます。牛の寿命は20−25年ですが、工場的家畜
制度のもとでは肉牛も乳牛も4−5年で殺されます。養豚場では、豚の去
勢を麻酔なしでやっているところもあります。(豚の陰嚢をメスで切って、
指を入れて睾丸を取り出すという作業を麻酔なしでやり、睾丸を取り出し
た後は自然治癒に任せて放ったらかしているため、化膿して豚が死ぬこと
もあります) 鶏は、肉用の鶏と卵を生産するための鶏は違う品種なので、
卵をうむための鶏から生まれたひよこのオスは生きたままゴミ箱に捨てら
れ、先に投げ込まれたオスのひよこは圧死します。鶏は互いにつつき合わ
ないようにするためにくちばしを麻酔なしで切られています。こういう事
実を知ること、知らせることは別に悪いことではないでしょう?そして、
この真実を知って”イヤな気分”になるのは倫理という高尚な概念からで
はなくて単なる嫌悪感からではないか、と私が思うのは、私自身が単なる
嫌悪感を抱いているからですが、ここで倫理に目覚める人がいればそれは
それでいいと思います。


ただ、私がネコ殺しや、とさつ、肉の解体に”倫理”を持ち込まないのは、
倫理で説得しようとする方法に反対しているからではなくて、日本ではこ
の部分に”倫理”という正義感を当てはめて話を進めようとすると部落問
題や在日コリアン、在日中国人差別の問題に発展してしまって、論点がず
れてしまうからです。

肉食が”人間のエゴイズムだ”という解釈は間違った解釈ではないと私は
思います。
ショウさんは”エゴイズム”という言葉をどう定義なさっているのですか?
ラテン語の語源にあくまでも忠実に”自分一人のことばかり考えていて、
「他人」のことはおかまいなしということ”だとお考えでしょうか?
もしも、現代英語における一般的な定義”自分一人の利益が全ての行動の
原動力となり、周りへの配慮がないこと”という、より広範囲での定義を
認めてくださるのなら、肉食は地球環境にとって悪影響を及ぼすものなの
で、つまりそれは”周りへの配慮がない”ということになり、だから人間
のエゴイズムである、と言えるのではないでしょうか。
もちろん、どしても”エゴイズム”という言葉が「人間が”他の人間”に
対して配慮がない」ときにのみしか適用できない気がする、つまり、配慮
すべき対象となるのは他の人間だけで、他の生物や生態系はその範疇にな
い、とおっしゃるのでしたら、もっと話をつきつめてみてください。
A-I ミラノがまだ市場に出回っていない現時点では、肉食はハイ・コレス
テロールの原因の一つであり続けています。動物・及び動物からとったも
のを食べる人のほうが心臓病や動脈硬化にかかりやすいことも医学的なデ
ータが出ていますが、だからといって肉食者の保険料を上げるわけにはい
かないですから、肉食者が肉食のせいで病気になったときは、健常な菜食
者が間接的に肉食者のツケを払うことになる、ということも言えるわけで
す。
先ほどフルーロクイノロンズについて書きましたが、工場的家畜制度がな
かったらフルーロクイノロンズに代わる新薬は必要なかったわけですが、
工場的家畜制度のせいで新薬が必要になる。製薬会社が新薬を開発する資
金は、薬を高くする(というか実際は安く作れる薬を高い値段に保つ)と
いう方法で取得されるので、肉を食べない人間たちにもツケが回ってくる
し(もちろん、菜食者の多くは動物実験に反対しているので、このような
製薬業者の薬を買うことはまずない、ということは言えますが)、新薬を
政府が承認するかどうかの段階では政府自体が研究を行う必要があり、そ
の資金は国民の税金でまかなわれるので、ここでも肉食者のツケを非肉食
者が払うことになるのです。
家畜が出すおびただしい量の排泄物が川や湖、場合によっては大地を汚染
していて、生態系を破壊しているわけですが、このツケも非肉食者にも回
ってくるわけですから、肉食は人間のエゴイズムという解釈は間違ってい
ないと私は思います。

ショウ - 00/07/10 16:14:14

コメント:
間違いだらけですいません...。「調和至上主義」の説明文の最後に“論理性やインパクトに欠ける...”というのは、「論理のインパクトに欠ける...」の間違いで、最後の“「調和至上主義が人間との調和」を唱える...”というのは“「倫理至上主義」が「調和」を唱える...”の誤りです。ごめんなさい!!
(今頃なのですが、前々回の発言でnyatete様の敬称がない部分がありました。すいません!!!)

ショウ - 00/07/10 14:06:23

コメント:
僕は、動物愛護を意識されている方には3つの異なるテーマがあると考えています。ひとつは、nyateteさんや「かわいそうだから」などという主張の菜食主義の方がおっしゃっておられるような「倫理至上主義」、動物や自然のありのままの姿こそを重要だと考える「自然至上主義」、そして人間の社会に適応した動物愛護を考える「調和至上主義」です。

「倫理至上主義」は、人間の倫理観にあてはめて動物の生命を重んずる傾向にあり、動物を愛護することによって"愛護"の観念を高め、人間の倫理観の向上を目的としています。目的が倫理観の向上にありますので、「残酷」や「かわいそう」などのキーワードが重要視され、人間以外の生物の生存競争とは懸け離れた理論が多くなりがちになりますが、人間の社会観念として成立しやすい意見が多くなります。最大の欠点は、本来の生態系の働きに戻す意識よりも倫理観による優先順位が選択される可能性が高いため、必ずしも自然や動物に対して効果的な結論が得られるわけではないということです。
「自然至上主義」は、自然や環境を守ることによる生態系の純粋な保護を考えており、しばしば人間の文化や生活・生命をも否定する場合があります。自然や動物に対して効果的な結論を得やすいのですが、現実的に人間の文化や社会生活に影響の大きい選択をすることが多く、反社会的なものや文明社会にとってナンセンスとも思える意見も見られます。また、動物愛護反対論者は、この角度から揺さぶりをかけてくるものが多いと思われます(笑)。
「調和至上主義」では、人間社会における動物のありかたを考えており、人間と人間以外の動物として解釈をおこなうといったものです。倫理観を重要としない動物愛護論になりますので、"自然至上主義"ほどではありませんが、自然や動物に対して効果的な結論が得られやすいと思います。しかし、許容できるレンジも広く、論理性やインパクトに欠ける部分があり、啓蒙には向いていない面もあるため、賛同が得にくく倫理観の助長効果も大きくないと言えます。
以上のような特性を踏まえると、「倫理至上主義」と「自然至上主義」は、かなりインターフェイスが悪く、「調和至上主義」は動物園や動物実験なども肯定できるキャパシティを持つことになります。動物の殺戮を許すべきではないという理由からの菜食主義は、「倫理至上主義」でしか成立しないと思われます。
「倫理至上主義」と「調和至上主義」の2つの異なる主張は同意に持つことも可能ですが、矛盾を抱えてしまうことがあると思います。だって、「犬」と「ミミズ」の絶滅を天秤にかけた場合を単純に想定すると、「倫理至上主義」は「犬」を選択し、「調和至上主義」は「ミミズ」を選択するでしょう。みゅうさんたちの意見が通らないのは、「みゅうさんが(倫理至上主義の立場から)植物の保護を訴えてみたら、あんやさんが(調和至上主義の立場から)反論した」のだと思われます。同じ(近い)価値観で動物愛護を考えることはできないでしょう。あんやさんの発言に「科学が相反する二つのことを同時に支持できないのでしたら」とありますし、これは科学ではありません。しかし主観の段階では「同時に支持できないコト」になってしまいました。これは、科学での正否以前の行動を起こす前の段階の議論ではとても問題だというコトでしょうね。だって、あんやさんは「オールオアナッシングではない」ことをあれだけ強く主張しているのだから...。(僕は、「後回しになっても植物も必ず保護される」という言葉で主張してほしかったと思います。)
少なくとも、あんやさんやあんやさんのおっしゃられる動物愛護団体は「調和至上主義」であり、場合によってうまく「倫理」を利用していると思います。そして、僕はこの「調和至上主義」に納得しなければならない内容は、素直に考えることができるようです。しかし、これが逆転している「調和至上主義が人間との調和」を唱える場合は、とても納得がいかないようです。

ショウ - 00/07/09 14:17:55

コメント:
科学は資本主義で汚れたモノで、栄養学も主観的に歪んだ部分があるということですね。だから、答えは正しくない可能性が高いとおっしゃっていると受け止めました。だから「どちらにしてもわからない」これはもっともだと思います。鯨の保護に対するアプローチはどう考えても倫理だと思えるのですが...。でも、まぁこれは一時が万事ではないということでいいでしょうね。
ちょっとアゲアシをとるように聞こえてしまうと申し訳ないのですが「単に血みどろで気持ちが悪いだけ」の写真を取り沙汰して「気持ちが悪い」という動揺を誘い、そこで共感を得ようとしているのであればとても疑問を感じます。このような活動を行なっている愛護団体は、きっと「単に気持ち悪がらせよう」という主旨ではないですよね。やはり「残酷さ(つまり倫理的に許せないという部分)」に訴えているものを感じます。...というか、そう感じてもおかしくないような気がします。あんやさんはこのような活動を行なっているのかどうかわかりませんが、もしそうでなければ、残酷写真や残酷文章のオンパレードの活動についてどう思われているのですか?また、あんやさんの御意見の中や動物愛護団体の実際の活動は多岐に及び、条件に応じた生物学的な判断を感じますが、倫理観念に訴えられた菜食主義者の方々は同じ解釈ができているのでしょうか?このサイトを含め、倫理観念に訴える発言や記述をとても多く目にします。著名な哲学者や詩人の言葉に引用などにもそれを強く感じます。現実、そういうふうに見える活動に疑問を持つ人達が「人間のエゴイズムだ」などと誤った解釈に突っ走っている部分もありませんか?「かわいそうだ」や「残酷でしょう?」みたいなものを前面に押し出して動物愛護に感心を持たせるととても納得できない決議が生まれそうな気がします。
カネにまみれて、危急を要する環境問題にも耳を貸さない世論や政治という現実を踏まえて、既成の事実に疑問を持ち、有志によって事実を探し出して、できることから限りある行動を起こしましょうとおっしゃっているのですね。これはとてもよくわかりました。そして、野生の動物に土地を返すために牧畜をやめ、菜食主義を行なうのですね。倫理観からではなく自然保護の立場から生態系の保護を訴えているのですね。
うーん、僕が目にして受け止めてきたものとあまりに違いますので、僕の知識不足と思っていただいて結構です。失礼しました。しかしですね、あんやさん。一般に目に触れる動物愛護や菜食主義のテーマを説く看板を見ると、僕のような角度から考える人がいてもおかしくないような気がしませんか?僕にはどのような生物学的なアプローチが適切なのかはわかりませんが、アクションを起こすためにはどこに事実があるのかを探すことが大切だと思っています。菜食主義に関してもどうしても彼等の倫理的な主張が頭から離れないので納得しにくいですね。ゴネてるわけではなくて、また自分なりに考えてみる必要があると思っています。

あんや - 00/07/09 11:15:16

コメント:

ショウ様

まず、私のそもそもの論点は、みゅうさんの”全ての命が大切なので、動
物だけを救うのはおかしいから、私は動物も植物も平等に食べる(殺す)”
というロジックに関してで、選べる立場にある人間はがそういうロジック
を使うとこの世の中がどうなるか、ということを例を挙げて説明したもの
です。動物だけを救うのはおかしい、という考え自体は私は否定してはい
ません。動物も植物もできる限り救いたいと思っています。家畜をなくせ
ば飼料として”殺される”植物の数も減って、結果的に多くの植物も救え
ます。

インド人のベジタリアンの例は、アメリカ(北米かもしれません)在住の
インド人のベジタリアンのこと頭に思い浮かべていたのですが、私の書い
たあの文章からは、どう見てもそうは見えませんでした。申し訳ありませ
ん。90年代にアメリカで cave man dietという肉とコレステロールだら
けのダイエットが流行ってガンの予防にもなるという噂が流れ始めたとき
に、それに危機感を感じた医者や栄養学者たちがベジタリアンとcave man 
dietをしている人たちを比較しようとして健康状態に関する様々なデータ
を出したことがあり、その中にエスニック・グループで分けた例の一つと
してインド人のベジタリアンのデータがあったのを思い出したのですが、
さっきまでインターネットで検索していても見つかりませんでした。デー
タが出せず、残念です。(ただし、今思い出してみると、このデータの中
には、薬草によるガン治療の効果がプラシーボ効果とほぼ同じだった、と
いうようなものもあったので、特に肉食にとって不利になるデータではな
かったような気がしますし、栄養学や医学の実験とは言っても被験者の心
理状況、プラス思考かマイナス思考か、運動をする人か、もともと遺伝的
に太りやすい体質か、親兄弟や親戚にガンで死んだ人がいるかなど遺伝子
的な要因など、様々な要素を無視できないので、栄養学もあまり論拠にな
らないような気がします。)
ショウさんがよりどころとしている栄養学者の結論では”肉を摂取した方
がより安全に栄養を得やすいというのが事実”、ということですが、安全
に栄養を得やすいことと、ガンにかかりやすいか、心臓病にかかりやすい
か、ということは、また別の話なので、”健康的”という観点ではどちら
がいいとも言えないということでしょう。


なぜ植物より動物を、魚よりほ乳類を優先するか、に対する私の答えは、
倫理に基づくというより、現実に基づくものです。犬やネコが殺されるの
は残虐だから見たくないというのは倫理というところまでいかないような
気がします。単にこの現実社会で育った人々の条件反射的な反応ではない
でしょうか。とさつの現場や血塗れの肉塊の中から臓物を取り出す精肉の
プロセスに嫌悪感を抱くのも、倫理というより、単に血みどろで気持ちが
悪いと思う人が多い、ということでしょう。ただ、動物の権利を認めたい
と思っている人間たちが、そうではない人間たちに語りかけるときに”倫
理観”に訴えようとすることは確かです。
科学至上主義は科学の進歩のために動物実験をする、ということにつなが
りますし、科学は必ずしも絶対に正しい答えを一つだけ出してくれるわけ
ではないからです。
さきほど書いた通り、ガンの研究者(もちろん博士号を持った人ばかり)
の中にも、菜食がいいという人達もあれば、cave man dietをよしとする
人もいるし、栄養学の博士たちの中にも菜食を推奨するグループもいれば、
そうではないグループもいるので、科学はよりどころにしにくいのです。
アメリカで起きた生態系、公害、医療ミスなどに関する様々な訴訟の裁判
記録を読んでみると、被告側にも原告側にも”信憑性のある科学者や医学
者”がそれぞれついていて、両方がそれぞれ科学的・医学的な分析をして、
全く相反する二つの”科学的・医学的結論”に至っているので、科学が万
能だとは思えません。
裁判になった場合は、陪審が信じたほうの科学が勝つ、というのが現実で
す。
もし、科学が相反する二つのことを同時に支持できないのでしたら、ショ
ウさんのおっしゃる通り”自然にとって必要なものは科学的に考えるべき
であり、民主主義で決めるべきではない”という意見も納得できます。た
だし、それは、ソビエト連邦のような民主主義ではない社会でないと可能
ではありません。
地球の将来を決められる立場にあるほとんどの国々が民主主義体制をとっ
ている以上、万一科学が万能だとしても、自然にとって必要なものを科学
的に決めることは大変難しいと思います。
例えば、化石燃料が地球環境にとってよくない、ということはもう何十年
も前から分かっています(これは科学者全員が統一見解を出しているとい
う珍しい例です)が、アメリカでは石油会社の力が強いために太陽エネル
ギーの開発にあまり力を入れていません。ショウさんのおっしゃるように
科学で決められるものなら、ステルス開発やNASAに資金と頭脳をつぎ込む
代わりに電気自動車の開発に力を入れていたら今頃はまともに走る電気自
動車ができていただろうと言われていますが、エコロジーよりも兵器会社
や石油会社の利益そして宇宙開発(これにも様々な企業の利益が関わって
います)のほうが大切にされるので、アメリカはいまだに太陽エネルギー
の研究は日本やヨーロッパにおくれをとっています。
こういう現実を無視して、”自然にとって必要なものは科学的に決める”
というのは机上の空論のような気がします。理想論を追いかけても自然は
救えないので、現実を認めた上で、その中でできることからやっていこう
とするほうが建設的ではないでしょうか。



モンタナでは、野生保護局がオオカミの管理に”最新科学”を取り入れて
いることをご存知でしょうか?
モンタナのオオカミは家畜を飼う人たちによってほとんど殺されてしまっ
たのですが、わずかに残っている何頭かをCNNのオーナー、テッド・タ
ーナーの牧場に閉じこめて、わざと牛を見せ、牛に襲いかかろうとするた
びにオオカミに電気ショックを与えて、捕食動物のオオカミにとっては自
然の行動である”獲物を襲う”という行動を科学の力でやめさせようとす
る実験が行われています。
肉食大国アメリカでは、肉業界のロビーが強いため、コヨーテやキツネ、
オオカミが必要以上に罠にかけられたり狩猟などによって殺されているの
で、自然の生態系を守る、という意味でも牧場を減らす(つまり肉食を減
らす)ことは理にかなっているのではないでしょうか。
家畜の糞によるメタンガス公害もバカにできませんが、これはその気にな
ればそれこそ”科学”が解決してくれるでしょう。

生物学的に菜食主義が矛盾している、という意味が私には分からないので
すが、自然を大切にするということに話を戻せば、家畜の数が減れば、家
畜のための牧場を野生生物の生息地に戻すこともできるし、家畜が食べる
分の莫大な量の穀類がうくし、自然にとってはよりよい世界になります。

>> 署名運動などをしたときに鯨だと鯨の命を救おうという賛成者が多
いので...
>...このあたりが、こういった運動の最大の魅力であり致命的な欠陥と
言えるでしょう。倫理観を高揚することで危険な運命にさらされた特定種
の動物を救うことができる....人間のテイストによって生かす動物を決定
してしまったと解釈できてしまいますね。
<コヨーテや五大湖のコケの生存権を守ろうとしている人たちは、倫理観
からではなく自然保護の立場から生態系の保護を訴えているので、倫理観
を高揚させて人間のテイストにあう特定種の動物を救おうとしているので
はなく、生態系全体を救おうとしているのです。酪農家によってコヨーテ
やオオカミが乱獲されたことにより、天敵を失ったウサギがシカ、野生馬
が増えすぎて、こうした動物たちが食べる草が不足し、生態系全体に被害
が生まれているからです。もちろん、その結果人間がレジャーとしての狩
猟をすることを助長するという事態も起きているので、レジャーとしての
狩猟をやめさせる、という意味では倫理的とも言えますが、それはあくま
でも副産物で、基本は生態系の保護です。

”手を挙げた人数で生きるべき命を決めていくと、どこかでおかしいこと
になりはしないでしょうか?”
ということですが、手を挙げる機会が一度しかなくて、鯨しか救えないの
でしたら、それは実におかしなことでしょう。しかし、鯨の後はコヨーテ、
コヨーテの後はアライグマ、と、人々の生態系保護に関する意識を時を追
うごうごとに高めていき、何度も手を挙げてもらって、最終的に生態系の
バランスが保てるようにまるまで全ての生物を救おうとしているのですか
ら、”おかしなこと”にはならないでしょう。

ショウさんは、今の世の中(工場家畜、アメリカにおけるオオカミの乱獲
なども含めて)は生物学的にバランスがとれたものだとお考えでしょうか?
もし、とれていない、というのでしたら、生物学的にどうしたらいいとお
考えなのか、また、その理想に近づくためにどのような生物学的な説得法
を使えばいいとお考えでしょうか?
是非教えてください。

ショウ - 00/07/09 04:09:39

コメント:
nyatete様、とても中身が濃く問題意識の高いホームページを充実した内容で満たしておられて敬服いたしております。以前、私も社会問題に関してのホームページを開設しておりましたもので、個人の力では御苦労も多いだろうということもお察しいたします。

さて、どうしても"あんやさん"の意見には一矢報いておかなければ、みゅうさんやひできさんのお話が死んでしまいそうなのでやむを得ません。「賛同しない方々は、議論に耐えうるだけのロジックを示してください」ということですので、あくまで論じれる姿勢があると解釈して意見させていただきます。

まず、みゅうさんたちの意見は「オールオアナッシング」ではありません。本当は「あなたたちの動物愛護に対する概念が間違っているから菜食主義には賛同できない」と言っているのだと思います。僕もみゅうさんたちの意見に賛成です。なぜかというと、あんやさんたちの意見はメンタルを重要としており、バイオやエコに科学的に関わる問題が後まわしになっているようだからです。あんやさんたちは論理の核が「人間の倫理」になっているのです。そして、みゅうさんたちの意見は「生態系にとって生物学的に必要なコト」が論理の核になっています。みゅうさんたちの意見には倫理の要素が少ないため、訴求する力は弱いのですが、本質的に動物に必要な条件に結びつきやすいと考えられます。ドギツイ例になって申し訳ないのですが、養豚場の豚がいくら殺されようともそれだけでは生態系に影響を及ぼしませんが、特定種の自然植物が人間の影響で絶滅すると、その地域の生態系に大きな影響を与えかねません。倫理的に我慢ならないのは豚が殺される場面なのですが、自然にとって打撃なのは特定種の植物の絶滅であることは誰にでもわかることでしょう?(違う角度ですが、豚の惨殺を皆が容認できるほど人の心が荒めば、人の文化が闘争や戦争を起こしやすくなるかもしれません)
そして、ひできさんは「生態系にとって生物学的に必要なコト」が聞きたかったのに、あんやさんは「人間の倫理」について答えるために「はぐらかされた」と思ったのだと思います。

あんやさんの"00/06/29 01:32:12"の発言に答えてみましょう。

> ベジタリアンのインド人が出生率が低いわけではなく、非健康的なわけでもない
...という発言がありますが、残念ながらインドは参考になりません。インドはベジタリアンが多いおかげで平均寿命が短いとも考えられるからです。この国は衛生的な問題もあるため、難病や疫病のおかげで平均寿命が短いとも言えるのであまり参考にはならず、「よりバランスの取れた議論」にはならないでしょう。加えておきますが、菜食主義で健康を保てるかどうかは、その人のコンディションによって栄養学的、医学的に様々な意見があるというのが事実で、肉を摂取した方がより安全に栄養を得やすいというのが事実です。

> 自分の手で殺すことに嫌悪感を抱くもの
...殺戮のシーンや殺される方法についての残虐性を考えると、人間以外の生存競争のなかには、かなり厳しいものが数多くあります。自然にとっては「生命の死の苦しみ」など何の影響もないことであり、人間の感受性にとってこそとても問題になる部分です。この問題を提起していることこそ自然の観念よりも倫理が先行している証拠と言えます。

> 署名運動などをしたときに鯨だと鯨の命を救おうという賛成者が多いので...
...このあたりが、こういった運動の最大の魅力であり致命的な欠陥と言えるでしょう。倫理観を高揚することで危険な運命にさらされた特定種の動物を救うことができることはすばらしいことです。倫理観を促すことは訴求力が強大なため、このようなことを実現できたと思います。しかし、これによって人間のテイストによって生かす動物を決定してしまったと解釈できてしまいますね。

あんやさんは「相手のロジックの矛盾や盲点をわかりやすく示し、そのロジックが建設的ではない、と指摘することは、生産的な議論を展開するための第一歩です。」とおっしゃっています。倫理をもって動物愛護運動をおこなえば、動力(人を動かす力)を得れるので、それはとても魅力的だと思います。ですから、倫理を使って(行動を起こせる)動物愛護を考えるのは悪いとは思いません。これは、nyateteたちのおっしゃる「できることから始める」という意見と一致しています。しかし、倫理と自然を別に考えると本当(生物学的)に必要な答にはならない場合があるような気がします。手を挙げた人数で生きるべき命を決めていくと、どこかでおかしいことになりはしないでしょうか?自然にとって必要なものは科学的に考えるべきであり、民主主義で決めるべきではないような気がします。「そんなコト実際にはできねーだろ!」と言えば、今のところはホントに倫理観以外で動力を得るのは難しいのかもしれません。科学よりも賛同者を優先するということは、それはそれで実りある行為です。しかし、人を動かせる(倫理を使って動物愛護を叫ぶ)位置なのであれば、生物学的な見地からの欠点を生みやすくなっているのですから「ロジックの矛盾や盲点」という言葉で違う意見を一蹴してしまうのではなく、「もっとよい方向にすすめる意見なのかもしれない」という角度からも考えてみるべきはないかと思います。それがなければ「生産的な議論」などとは言いがたいような気がします。そういう意味であんやさんの意見はとても排他的に見えます。

そして、もうひとつだけ言わせてもらいます。生物学的に見ると菜食主義は矛盾しています。動物愛護は「倫理至上」という観点以外にも「自然至上」や「自然と文明との調和至上」という観点などからも考えている方がおられます。「倫理」以外の観点で動物愛護を考えておられる方にとって、菜食主義は矛盾でしかありません。ですから動物愛護という切り口から菜食主義をすすめるべきではないような気がします。しかし、人道的な見地からはとても素晴しい行為だと思います。「殺戮や暴力を容認しないため」、「平和主義のため」の訴えとして、とても素晴しい運動をされているのだなぁと思っていますよ。

いろんな主義や思想はあると思いますが、「動物愛護」という角度が同じなのであれば、うまくまとめればより大きな力になっていくと思います。「オールオアナッシング」ではありませんから同じ旗が振れる部分は大事にしましょうね。

ショウ - 00/07/07 13:51:07

コメント:
引き続きの発言になって申し訳ありません。
「人間は、動物の命を粗末にしている」と発言すると、多くの人の共感を得ることができると思いますが、これは、戦闘や合理性を追求する民族が残ったからなのだと思っています。戦闘を好む民族に滅ぼされた民族の中には、自然との調和をとても大切にし、無闇な殺生をしない人々がいたんです。しかし、絶滅した民族が菜食主義だったという話はあまり聞きません。これらの民族は、自然への感謝を忘れないように肉食を行なっていたはずです。菜食主義者というのは、戦闘民族に不足しがちな倫理観を補おうというものではないのでしょうか?そういう倫理観を補うためには、リアクションの少ない対象(植物など)では満足ができないのだろうと思います。だから保護の対象が「相手が苦痛を感じる」と容易に判断できるものに落ち着くのではないでしょうか。僕は菜食主義者というのは、(戦いを好む)人間が戦闘(残酷な)意識を持たないよう、強いては平和に過ごせるように考えている人たちではないのかなぁと考えています。菜食(平和)主義の意識が動物愛護に繋がることはあると思いますが、動物愛護が菜食主義に繋がる必要はないような気がします。

ショウ - 00/07/07 11:58:00

コメント:
はじめまして、興味深く掲示板を拝見させていただきました。みなさんの発言は中身が濃くて長文が多いので、ここまで読むのも一苦労でした(笑)。「なぜ、植物の命よりもの動物命を大切にするんだ?」という疑問は僕も感じています。もちろん「大切に見える命から救っていくべきだ」と思っていますよ。みゅうさんやひできさんが本当におっしゃりたいのは、「オールオアナッシング」ではないような気がします。彼等の発言には「それだったらやる必要はない」のようなくくりがあるために問題が発生しているようですが、本質的にはその部分は蛇足であり、「大切に見える命から救っていくべきだ」と思ってる方の中にも「なぜ、植物の命よりもの動物命を大切にするんだ?」という疑問を持つ人がいてもおかしくはないと思います。疑問が残るために行動が躊躇されることはしばしばあります。だから「オールオアナッシング」的に発言しなければならないこともあるでしょう。 非常に誤解を招く発言になってしまうかもしれませんが、僕はすべての命の大切さは同じではないと考えています。生きることへの執着の度合いから考えると重さは同じなのかもしれませんが、その命の担う役割などを考えると、それぞれの命の大きさは違って見えるのだと思っています。その命の担う役割とは、食物連鎖による生態系の成立を維持することです。要するに生態系のピラミッドの上にいればいるほど、捕食する数が増えるため、生態系に大きな混乱を招きます。ひとつの命の担う役割はピラミッドの上か下かで大きく異なるわけです。倫理的に考えると、生きることへの執着が命の重さであると考えられるので、同じとしてもいいのですが、生物学的に物理的に考えると、見た目の(体積とでも言いましょうか)大きさは違うのだと思います。命の尊さや大切さは個人の見解や思想ですから、体積を重視する場合があっても重量を重視する場合があってもいいでしょう。こう考えると、ピラミッドの上にいる動物の保護を優先するのも納得できるような気がします。

渡辺晶子 - 00/07/06 15:34:33

コメント:
ここのところみゅうさんたちの意見を読んでなるほどなあ、とかう〜んそれは違うんじゃないかなあ、と思ったりしていました。 皆さんが意見をとても理論正しく語っているのに関心するとともに、(私にはとてもそんな風に難しく語れないので・・・)言葉って難しいなあとつくづく感じました。 今日お昼休みに、今までのゲストブックを初めて1から読ませていただきましたが、これまでにもいろいろな投稿があったのですね。 その中で、「顔や本名をださなくてよいせいかもしれないが、あまりに乱暴な言葉(意見でしたっけ?)が多すぎる気がする」みたいな投稿をよせている方がいて、私も今同意見です。意見の内容はともかく(人それぞれ考え方が違って当然だし、それを話合う場でもあると思うし。Nyateteさんもそういうつもりでホームページを開いてらっしゃると思うんです。) ひできさんの捨てぜりふみたいな言葉で締めくくられると、読んでいるほうも内容ではなくその言葉にいやな気持ちになります。 皆さんそれぞれ自分の気持ちを率直に、相手に理解してもらえるよう一生懸命語っているだけだと思うんですが。 ちょっと議論とは関係ない話題になりましたが、すみません。

きょん - 00/07/05 17:23:42

コメント:

「なぜ動物だけ大事で植物はいいの」という話ですが、良くある話ですから興味深く拝見
させていただいておりました。「興味深く」というと語弊があるかもしれず、動物を好きで
少しでも守りたい人からすると避けては通りにくい問題だから深刻に受け止めていたとい
う表現が適当でしょうか。
そう、「偏見の払拭が第一」のような感もある動物愛護関連のことですから、こういった
一般的に矛盾と感じさせることには神経を使わねばというスタンスですね。

これまでの「みゅうさん」や「ひできさん」の持っていた素朴な疑問の大方は「あんや」
さんが丁寧に答えてくれているかと思います。要は概念が先行しAnimal Rightやベジタリ
アンを捉えるとしばしば「なぜ動物で線を引く」という疑問がまず生じること自体は普通
でしょう。
この疑問に対して「なんで動物と植物が同じに感じるの?感性が違いすぎて会話でけへん
わ」と思うか、「確かに矛盾してるようでどういって説明すれば…」と腰が引ける場合と。

前者のケース。この場合本人達の意向に関係なく、このHPにおけるこれまでのみゅうさ
ん達の発言から、動物(犬と特定してもいいですが)に動物好きな人が感じている感性を
彼らが植物に抱いているとはとても思えなかったという背景があるでしょう。彼らの文章
が同様な植物への感性を示していたらば、それは全く違った声が多くなったでしょう。
それは、「食事は心が痛んでつらくて仕方ないでしょう」とか「この現実社会でヒト以外の
生命への尊厳の無さって嫌になりますよね」或いは「私は食肉をコントロールすることしかでき
ていませんが、植物にまで広げてその犠牲を減らそうと努力しているなんてすばらしいで
すね」等々と。まぁ、公にいうと「動物きxxx」という偏見を増長させてしまうので
こういった場所ということで敢えて言えば、この世にヒトと飼い犬しかいなくなったらば、
「罪と罰」のような世界に入ってしまうような気がします。己が死ぬか他人を殺すか。
但し、あの主人公とは違い老いや弱きでなく「エゴイスティックな輩」から食らって
やりますけど(笑)。

次に後者のケースですが。
まず、「なぜヒトを食さないの?」と自問自答、或いは他人に尋ねる。そして「同じ理由
で私は肉を(牛を)或いは(魚も)食べないの」と。ここで「別に植物を軽視している
わけではなく、現実にできることからと考えてまずは肉食に自分なりの制限を設けている
の」と付け加えておく。更に「すべての命はありがたく頂く」と言ってしまうと、これ
だけ飽食の現代先進国社会においては、何も命の重みなど考えていない多くの人たちへ
賛同になってしまい、結果的に工業的家畜(動物虐待の範疇でしょう)を増長するだけ
だからとまで説明できれば嬉しいかなと。

まえにも書いた覚えがありますが、とにかく人の食欲はすさまじいんで、肉食を肯定した
いだけってな人にばかり接っしなれちゃうと、上記のような素朴な疑問にはうつらなくも
なるのは仕方ない部分もあるかと思います。
最後に、私はみゅうさん達のような指摘には丁寧に答えていきたい(動物保護を考えると
すべきこと)と思っています。まぁ、同じ事の繰り返しで、「もう少しQ&Aを読んでくれ
よ」という気持ちも確かによくわかるんですけどね。


nyatete - 00/06/29 07:47:36

コメント:

>ひでき様

私は別にあなたを「ねじふせよう」とするつもりも「排除」しようと
するつもりもありません。「100%賛同してくれる人を集めたくて」
サイトを開いたつもりもありません。あなたの感じ方はあなた自身のも
のなのだから、それは別に私がとやかく言うことではないのかもしれま
せんが、一方的にきめつけられるのは心外です。

「現状の情報の公開方法のままですと、必ずしもHPを読んだ人すべて
 が動物愛護に賛同して肉食をやめるようになるとは思えないのです。」

とのことですが、どんな内容のものであっても、「読んだ人すべてが
賛同する」なんてことはあり得ません。一つの意見に全員が右にならえ
をしてしまう様なら、逆におそろしいと思います。

私には私の意見があるし、あなたにはあなたの意見がある。相手の意見
に賛同することもあれば、反論することもある:それは、ごく当たり前
のことです。もちろん、おっしゃるとおり「書くのも自由/書かないの
も自由」「見るのも自由/見ないのも自由」であるのは確かですが、私
は誰かを「排除」するつもりはありません。反論と排除は別だと思いま
す。


あんや - 00/06/29 01:32:12

コメント:

ひできさん、
私は質問をはぐらかしてはいません。
「なぜ動物だけなの?」という質問への答えは、「オール・オア・ナッシ
ングではないから」です。お分かりいただけないでしょうか?
つまり、「全ての命は助けられないのだから全ての命を平等に奪う」、と
いう考えではなくて、「全ての命を助けることは不可能だから助けられる
可能性の高いものから先に助けていく」、という考え方なので、

1:この世界のごく普通の人々が「食べなくても健康的に生きていけるも
の」として必然的に「肉」があげられる、つまり動物をが選ばれるのです。
(みゅうさんは子供を産もうとしている女性には肉食が必要、とほのめか
す主旨のことをお書きになりましたが、ベジタリアンのインド人が出生率
が低いわけではなく、非健康的なわけでもない、という事実も考慮に入れ
ていただくと、よりバランスの取れた議論になるでしょう。)

2:この世界のごく一般的な人々が「自分の手で殺すことに嫌悪感を抱く
もの、他人が殺すのもあまり見たいとは思わないもの」、つまり、「殺す
ことに疑問を抱きやすいもの」、として、これまた必然的に動物(特にほ
乳類)が選ばれるのです。テレビで花を摘んだり、野菜を収穫したりする
映像は普通に流れるし、魚釣りや漁船が網にかかった大量の魚を引き上げ
て魚が甲板ではねている映像(魚は呼吸ができなくて必死にもがいている、
というのが事実なのですが)も普通に流れますが、(闘牛のような特殊な
場合をのぞいては)ほ乳類を殺す映像が普通に流れることがないのは、単
なる偶然ではなく「ほ乳類を殺す映像は残酷なのでテレビというマスメデ
ィアで流すべきではない」という暗黙の了解があり、そういう暗黙の了解
があるのは、大多数の人々が実際にそう思っているからです。

ひできさんは、以前ディズニー映画の例をあげておられますが、ディズニ
ー映画でも、主人公の人間が花を摘んだり野菜や麦などを収穫するシーン
は出てきますが、バンビの母親が殺されるシーンは銃声が聞こえるだけで
画面には現れません。こんな残酷なシーンは子供に見せたくない、という
配慮からでしょう。ワーナー・ブラザーズのアニメでも、トムとジェリー
でネズミが食べられそうになると悲しい場面、イヤな場面として描かれて
いますが、バッグス・バニーがニンジンをかじるとき、ニンジンが悲しん
で死んでいく、という描かれ方はしていません。何年か前にはやった子豚
が主人公の映画『ベイブ』でも、ガチョウが殺されるときは悲しいシーン
として描かれていましたが、羊たちが草を食べるシーンは草が死ぬ悲しい
場面としては描かれていませんでした。これは、多くの人間が植物よりも
自分に近い動物(特にほ乳類)に感情移入をしやすい、ということからで
しょう。

こういう現状(人間は植物より動物に感情移入しやすい、という現状)が
歴然と存在するこの世界で、全ての命を助けることはできないので、この
世の中の人々の多くが「私も助けたい!」と思ってくれやすいものの命か
らまず先に助けよう、助けられる可能性の高いものから優先的に助けよう
ということです。

以前、みゅうさんは捕鯨のことを書いておられますが、鯨の肉が人間が生
きる上で必要のない嗜好品にすぎないということ以上に、捕鯨に反対する
のは世界という舞台では鯨の肉を食べる人間は圧倒的少数なので、多くの
人々が「鯨を助けたい」と思ってくれやすいから、ということも言えるで
しょう。(鯨の数の問題の以前に)  もちろん、グリーンピースやヒュ
ーメイン・ソサイアティなどのメジャーな動物愛護団体は、鯨だけではな
くコヨーテ、ビーヴァー、あらいぐま、熊、オオカミ、キツネ、イルカ、
アザラシからネズミや東京では害鳥とみなされて殺されているカラス、果
ては五大湖のコケに至るまで、様々な生命を助けようとしていますが、実
際にデモや署名運動などをしたときに鯨だと鯨の命を救おうという賛成者
が多いので、他の動物の命を救う運動よりも捕鯨反対運動が目立つ、とい
うことです。

また、みゅうさんがお話をされた海外の人が鯨はかわいそうで豚や牛はか
わいそうだと思わないのは、成牛や成豚が即死させられているのに対し、
鯨はもりが心臓を貫いて即死させられることはまずあり得ないので、何本
ももりを打ち込まれて長い間苦しみながら死んでいくから、ということも
言えるでしょう。
どうせ死ぬんだから、殺し方など関係ない、と思われるかもしれませんが、
人間を死刑にする場合でも昔は電気イスやガス室だったものが、今では致
死薬注入による安楽死になっているので、死に方も人道的に、というのは
世の中の流れとして認めるべきではないでしょうか。
ひできさんは、肉食反対者が肉食賛成者の意見を「ねじふせようとしてい
る」とお考えですか?
相手のロジックの矛盾や盲点をわかりやすく示し、そのロジックが建設的
ではない、と指摘することは、生産的な議論を展開するための第一歩です。
私が読んだ限りでは、「なぜ動物(ほ乳類)だけなの?」と疑問をいだく
方が、そういう疑問を抱く理由は、「動物も植物も同じ命、命は平等なの
に動物(ほ乳類)の命だけを助けるのは不平等」という考えが働くから、
とお見受けしました。この考え自体は、納得のいくものです。ただ、その
あとに出てくる「命はみな平等だから、平等に殺す」というロジックが、
納得がいかないのです。みけさんが前にお書きになっていますが、本気で
”すべての命を大切にしたい、命を平等に扱わないのはおかしい”と思っ
ているのなら動物も植物も平等に食べない、という結論に至って、フルー
タリアンになるのが筋道の通った展開ではないですか?命を大切にする、
ということは、殺さない、ということなのですから。みゅうさんは”命を
大切にする”ということよりも、”命を平等に扱う”ということに重点を
置いて、”だから平等に殺す”という結論をお出しになっているので、そ
ういうロジックが日常生活でどういう結果を招くか、ということをわかり
やすいであろうと思われる例を挙げて指摘しているのです。


みゅうさんは自己完結しているから、それはそれでいい、という書き方が
お気にさわったのでしたら、まことに申し訳ありませんでした。

「賛同しない者は立ち去れ」ではなくて、「賛同しない方々は、議論に耐
えうるだけのロジックを示してください」ということです。
オール・オア・ナッシング(人間も動物も植物も平等に殺そう)というロ
ジックよりも、救える命から救おう、というロジックのほうが建設的であ
る、ということを様々な例を挙げて論理的に示したのであって、肉食者を
ねじふせようとしている(ねじふせる=非論理的な暴力や圧力でおさえつ
ける)わけではありません。


ひでき - 00/06/28 11:28:14

コメント:

自分なりの結論(自己解決?)をしてしまった以上、もうここへの書き込み
は遠慮すべきなのかも知れませんが、どうしても一言付け加えたくなり書
き込ませて頂きます。
限りなく「文句」に近くなってしまいますがご容赦下さい。

そもそも私(多分、みゅうさんも同じだと思います)が、ここに書き込んで
みたいと思ったきっかけは、「なぜ動物だけなの?」という、ごく単純な
疑問に対する答えを知りたかっただけのことです(私はペットに対する疑
問もありましたが)。なぜなら、色々読ませて貰いましたが、単純な疑問
に対する単純な答えが見つからなかったからです。その質問の仕方として
「植物」を例にあげて話をしてきたわけです。

Nyateteさんは、「(植物の話に対して)正直言って、私はこの意見にはほ
とほとうんざりしているんですが今までの断片的にしか答えてこなかった
し..(略)」と書かれていますが、みなさんに分かって欲しいのは、私や
みゅうさんを始め、動物愛護の問題を考えてみよう、と思い立った人(心
を開きつつある人)が最初に感じる単純な疑問である、ということです。
うんざりするほど植物(動物以外)についての質問があるということは、多
くの人が疑問に対する答えを見つけられずにいる、という事ではありませ
んか?

答えが見つけられないばかりでなく、逆に疑問(質問)が「はぐらかされて」
しまったり「ねじ伏せられて」しまう様な印象さえ受けます。
もちろん、そういうことを言ってくる人の中には反対派の人もいるでしょ
う。
でも、少なくとも私やみゅうさんに限って言えば「反対派」でもなく「肉
食を正当化したい」と思っているわけでもないことは、ほぼ毎回書き込み
の度に申し上げております。
はっきりこちらの立場を宣言しているにも関わらず、なぜ「肉食を正当化
したいのだろう」とか「平等を訴えるなら植物も食べるな」とかの反対派
への対応のごとき「お決まりの答弁」になってしまうのでしょうか。
動物以外は同列に扱えない、というのならばそれでいいじゃないですか。
別にそのことに異論はありません。しかし、うんざりするほど質問を浴び
てしまうのが嫌であれば、議論をこねくりまわすだけでなく、ハッキリと
「動物のことしか対象にしません。なぜなら.....」とご自分たちの
活動の対象と基本精神を初心者にも分かる形で目立つように掲げたらどう
ですか?
そうなっていれば私もここに書き込みをすることなく、自分なりの考え方
などがスムーズにまとめられたと思います。
現状の情報の公開方法のままですと、必ずしもHPを読んだ人すべてが動物
愛護に賛同して肉食をやめるようになるとは思えないのです。
正直な感想を言わせてもらうと、「賛同しない者は立ち去れ」的な攻撃的
なものを感じます。(もっとも100%賛同してくれる人を集めたくて開いた
サイトなのでしょうが....。)

まあ、インターネットは「書くのも自由/書かないのも自由」「見るのも
自由/見ないのも自由」ですから、趣旨にそぐわない人間の訪問を排除し
ようとするのも自由です。でも排除されたら決して賛同したいとは思わな
くなるのは確かなことです。

まあ、私もここまで書いてしまった以上は、もうこのサイトに書き込むこ
とはしないつもりです。
みゅうさんとは意見が合うようなので、もう少し色々とお話したかったの
ですが....。
それでは、お邪魔しました。
一日も早く、この世から「肉食人種」がいなくなりますよう、皆様のご活
躍をお祈りしております。

nyatete - 00/06/28 00:49:07

コメント:
おっとっと。この下のあんやさんの投稿を見る前に投稿してしまいました。 そういうことであれば、私も論点がずれているかもしれませんね。ちゅうか 私とあんやさんの意見にはそれほどへだたりはない・・ということかな。 意志の疎通とはなかなか難しいものです(と一般論でごまかすのであった)

nyatete - 00/06/28 00:37:45

コメント:

みゅうさんの意見に即して、救命ボートのたとえをするなら、やっぱり
それは100人とするよりも、種々雑多な100種類の生命体とする方
が適当だと思います。

牛や豚からカツオ(ボートにあげたら死ぬけど)、トカゲ、あり、
リンゴ、ぶたくさ、しいたけ、かび、大腸菌などなどで100種いると
します。

そしてそのうちのどれかを選んで助けるには忍びないから、どれも助け
ないという話になるのではないでしょうか。そして私は牛とリンゴを、
あるいは豚と大腸菌を「同じ命」ということで同列に扱う考え方に納得
いかないわけです。ついでに言うと、その100種の中に人間もいて、
それも助けない・・と言った方がまだしも首尾は一貫してないでしょう
か。納得はできないけど。


あんや - 00/06/28 00:29:10

コメント:

みゅうさん、どうも論点がずれてしまいましたね。
私は”選ぶ立場にいる人間のロジック”の話をしているのです。私の船の
例は、乗客は選ぶ立場にはない人間を意味するものとして書いたつもりで
すが、説明不足でした。

みゅうさんの三宅島の例は、全員が選べる立場にいる人間です。ですから
みゅうさんご自身も「植物や動物(広義)は選べる立場にない」というこ
とをご指摘なさっています。つまり、三宅島のこの例は、選ぶ立場にいる
人間が動物を選ぶか植物を選ぶか、というこの掲示板で話題になっている
論点とは関連性がないのです。船の例が卑近ではないから考えにくいとい
うことでしたら、もっと日常茶飯事行われている例を出しましょう。船の
例では、「人間が絶体絶命の時の活動と今の平和な状況とでは判断は異な
ってくると思いますよ」と言われてしまいましたので、そういう逃げがき
かない例をあげましょう。(ただし、本当に自分が信じているロジック/哲
学なら、どんな場合にでもあてはまってしかるべきですが、おそらくみゅ
うさんはオール・オア・ナシングをご自身の哲学、あるいはご自身の生き
る道、とまでは考えていらっしゃらるわけではなくて、肉食を正当化する
ために好都合な論理として引き合いに出していらっしゃるに過ぎないので
しょうから、そこまで話を広げることはないでしょう)

ちょっと前まで毎日のように行われていたリストラ。中小企業の社長(ま
たは人事部長)という選ぶ立場にいる人間が、ほぼ平等に仕事ができる部
下たち50人の中から5人クビにしなけれならないという場合。みゅうさ
んのロジックでは、全員クビにする、ということになります。みゅうさん
は、この場合も、社員も人間なので意志疎通が可能で選ぶ立場にあるから
クビになっても大丈夫という自信がある人が自分から退社する、という例
を出してくるでしょうね。では、国連はどうでしょうか? ルワンダやア
フリカの小国で餓死していく人々がいますが(飢饉のせいではなくて内戦
のせいで)、国連やユニセフという選ぶ立場にいる人間たちがみゅうさん
のロジックを適用したら、こういうことになります。「物資は比較的安全
な場所にしか送れず、その他のところで困っている人々には送れない。人
の命は全て平等に扱うべきなので、一部の人間だけ助けるのはおかしいか
ら、全員餓死していただこう。」 もちろん国連やユニセフ(物資を送る
という選択権を持っている人々)は、飢餓に苦しみ選ぶ立場にない人たち
(人間なので意志疎通はpossibleという意味では可能ですが、通信手段が
ないなどの様々な理由からprobableという意味では可能ではありません)
を平等に殺したりはせず、予算や警備などさまざまなあしかせに基づいて、
助けられる人たちだけを助けているのです。

選ぶ立場にいる者というのは、オール・オア・ナッシングの思考を持って
いると建設的な解決策を取れない、という”常識”を知っているからです。
(もちろん、国連やユニセフがみゅうさんのような思考だったら、この世
の中の人間の数が減って、動植物にとってより生きやすい環境になる、と
いう考え方もできます。)


アフリカでサイの密猟がさかんだったとき(今でも完全になくなったわけ
ではありませんが)、密猟を取り締まる組織は、予算が限られていたので、
一部の地域しか見回ることができませんでした。もし彼らがみゅうさんの
ようなオール・オア・ナッシングのロジックで行動していたら、「一部の
地域だけ見回って密猟者の一部を捕らえたところで、他の地域ではどうせ
サイが殺される。一部のサイだけ助けて全部のサイを助けないのは不平等
なので、密猟の取り締まりはやめて全てのサイの命を平等に密猟者の手に
渡そう」
ということになり、サイはドードー鳥と同じ運命をたどってしまうことに
なります。(もちろん、サイが絶滅すれば、サイに食べられるものたちの
命が助かるので、嬉しい、という考え方もあるでしょう。)


国連や密猟取り締まり部隊の例も、みゅうさんにかかると「自分がその立
場になってみないと分からない」と、逃げられてしまうかもしれませんね。


では、捨て猫を保護する、という日常よく行われている活動ではどうでし
ょうか?保護活動をしている人たちは、全員保護することを目標としなが
らも、それが物理的に無理な場合は、保護できる猫だけを保護します。み
ゅうさんのオール・オア・ナッシングの考え方で、全員保護はできないか
ら、全員平等に捨て猫のまま辛い一生を終えてもらおう、とは思っていま
せん。
孤児院の院長はどうでしょうか? 既に年齢を重ねた孤児は引き取り手が
なく、物心ついていない幼児しか引き取り手がないので、小さい子だけ幸
せな家庭がみつかり大きい子にはその機会がないのは不平等なので、全員
平等に孤児のまま孤児院においておく、というオール・オア・ナッシング
の思考だったら、少なくともアメリカの孤児院は満杯になってしまうでし
ょう。(もちろん、孤児院で過ごす方が、幼児虐待をする家庭で育つより
まし、という考え方もあるでしょう。どんなことにも例外を持ち出して
”反論”することはpossibleという意味で可能ですし、今までのみゅうさ
んの投稿から推測するとみゅうさんのお話の進め方ではこの手の反論は
probableという意味で可能です)


人間と動植物という図式では、人類全員が”選ぶ立場にいるもの”という
ことで、選択権がある人間がみゅうさんのようなオール・オア・ナッシン
グのロジックだと”動植物の権利を認めよう”という話はいつまでたって
も進展を見ないのです。でも、みゅうさんは進展をみたいわけではなくて、
ご自分が動植物を平等に殺している、という点で”平等”さを保っている
ので、ご自身の心の中では満足し自己完結していらっしゃるので、それは
それでいいでしょう。
ただ、動植物の権利を拡大していきたい、進展を見たい、と思っている人
間たちは、みゅうさんのような考え方の人が増えないことを願っているの
です。ですから、みゅうさんの考え方に賛同する人が出ないように、とい
う思いから、国連や密猟取り締まり部隊などの例を出して、この掲示板を
見ている方にオール・オア・ナッシングの思考がいかに非建設的で、ピラ
ミッドの頂点に立つ者たち(人間と動植物、という図式の場合は、人間)
にふさわしくない考え方であるかをかを知っていただこうとしているので
す。

みゅう - 00/06/27 11:06:48

コメント:
 人一人の活動は本当に限られていて、渡辺さんのおっしゃるように自分のできる範囲を活動される事はとても重要な事だと思います。 ひできさんがおっしゃったように両方がそれぞれの言い分を持っていてどちらが正しいのかなんて分かりませんよね。家族や親友もはなしてたのですが、平行線のままのような気がします。 あんやさんへ 面白いたとえですね。人間が絶体絶命の時の活動と今の平和な状況とでは判断は異なってくると思いますよ。もし私一人がその船に乗らずにすべてを助けることが可能であれば、快く船を降りると思います。面白いお話をしましょう。今三宅島は噴火の危機にさらされていますが、ちょうど17年前にも同じ噴火が起こりました。その時島の住人が逃げるまで東京電力は電気を供給しつづける事になりました。島には発電所があってどうしても機械を動かすのに3人は最低必要となります。それはそのまま発電した状態で放置すれば機械は暴走するからです。そこで職員はどうしたと思います?みんなで逃げたのでしょうか?それとも島の住人をほったらかしにして電気をストップしたのでしょうか?どれも違います。職員全員が(8人)残ると自ら立ち上がったのです。しかし、「若い命はこれからの未来を築いていかなくてはならない。」と所長がいい、残り二人は一番年配の方を選び、若者は無理やり本土に返しました。(まるでアルマゲドンのようですね)結局無事に帰ってきたそうですが、彼らは意思疎通が可能であり、自らの意思を伝える事が可能です。植物やその他の動物(広義)には可能でしょうか?まあ、私は船が沈没して生死をさまよった事がありませんので、実際になったらどういう行動に出るのか全く予測不可能ですが。

あんや - 00/06/27 00:12:00

コメント:
みゅうさんのロジックは、とても興味深い。 みゅうさんは、以前、こうお書きになっています。 ”ある一部分だけの権利を認めて、その他はごめんなさいねっていう考えがどうしても 許せないんです。すべての命は平等でそのすべての命に権利を与えてあげたいっていう のが私の考えなんです” そして、その上で、こういう結論を出していらっしゃいます。 ”自分が生きていれば何かを殺して食べる事には代わりが無いのですから、どっちも平 等に食べる事は筋がとおっていないとは思いませんが。” この論法でいくと、こういうことになります。みゅうさんが救命ボートに人を乗せる決 定権を持っている人間だったとしましょう。 ”乗客が100人乗った船が氷山に当たってまっぷたつに割れ、救命ボートには50人 しか乗れない。救命ボートに乗れない人たちは絶対に死ぬ運命。人の命は全部平等だか ら、女性と子供だけを救うという伝統的な考え方は「ある一部だけの権利を認めて、そ の他はごめんなさいね、っていう考え方なので、どうしても許せない」 全ての人の生 存権を認め、全ての人を助けてあげたい” ”自分が救命ボートに乗せる人間を選ぶという義務を果たすためには、誰かを見殺しに することには代わりがないのだから、全員平等に殺すということは筋が通っているから、 全員見殺しにしよう” 世の中、いろんな考え方の人がいます。

nyatete - 00/06/26 23:24:03

コメント:

>渡辺晶子様
「アメリカン・ビューティー」みました、みました。
面白かったですねー。最近のアカデミー賞の作品賞は受賞作よりノミ
ネート作の方にいいのがある様な気がしてましたが、今年はこりゃ、
納得でした。でも、こんな作品でも作品賞をとれるんですね。面白い
ですね。「タイタニック」とはえらい違いだ。当たり前だけど。
「グリーン・マイル」も良かったけど、やっぱり原作を読んでると、
「ふむ、ふむ、ていねいに作ってるのー」と冷静にみてしまうので
感動としてはいまいちでした。
次の期待はもちろん、「サイダー・ハウス・ルールズ」です。

>みゅう様
 二重投稿になっていたので、かたっぽを削除させていただきました。

 うーん、私はやっぱり植物と動物を「同じ命」だからと同列にみる
ことはできませんね。現在、人間と動物との間にこれだけ圧倒的に、
不平等な現状があるのに、動物と植物の不平等がそれほど問題になる
ことなのでしょうか? まあ、こういう話になると議論は平行線のま
まかなという気もしますが。

>みけ様
 はじめまして。
・・と申しましてもHPはずいぶん前から、ちょくちょくのぞかせて
頂いておりましたので、あまり「はじめまして」という気はしません。
なんせ狭い業界(?)ですので。今後ともよろしくお願いいたします。

私も肉は一旦、食べなくなると食べたいといく気もほとんどなくなり
ました。そういう人は多いんじゃないかと思います。禁煙なんかより
簡単かもしれませんね。

植物をどう評価しようとも、それが動物の権利に反対する理由にはな
らないのじゃないかと私は常々、思っています。


渡辺晶子 - 00/06/26 12:57:17

コメント:
最近いろいろな意見が白熱していますね。 思うんですけど、人ひとりの許容範囲ってそんなに大きくないから、自分ができる範囲のことをすれば良いのではないでしょうか。 動物実験反対や肉食反対の人は、それについて行動を起こせばよいし、植物の権利をもっと広めたい人は、それをたくさんの人に訴えればよいし。 自然破壊や子供の人権尊重や。でも結局全てはつながると思うしいろいろな人がそういうことに対して意識を持ち、なんらかの行動を起こすってことが大切なのではないでしょうか。(そしてその数が増えていけば、影響力も大きくなるし。) それに動物の権利について語る人たちが、かならずしも植物については軽く見ているってことはないと思うんですけど。 ところでnyateteさん。ちょっと古いのですが、「アメリカン・ビューティー」観ました?以前ホームページ見たときはまだ、とのことだったのですが。私は先日たいして期待もせず観に行ったらすごく面白かったです。ケビン・スペイシーは他には「ユージュアル・サスペクツ」ぐらいでしか見たことなかったんですけど、すごく味のある俳優ですね。まだだったら是非観てみてください。

みゅう - 00/06/26 08:07:12

コメント:
 みけさんへ 植物は体の一部が食べられたとしても、死なないですが、あなたの体の一部をもぎ取って「大丈夫、死なないから」といっているのと同じではないでしょうか?私は植物も動物も同じ命と思っていますので、両方食べます。爬虫類や昆虫なんかも食べています。意外と鶏肉みたいでおいしいんですよ。まあ、あまり市販されていないので牛肉や豚肉ほど食べませんが。どっちにしろ自分が生きていれば何かを殺して食べる事には代わりが無いのですから、どっちも平等に食べる事は筋がとおっていないとは思いませんが。それより、どうして動物のみを対象としているのかを答えてください。そして、植物たちや広義の動物たちをあなたが扱わない理由を教えてください。私は肉食を正当化しているのではなく、動物や植物というだけで、異なった扱いを受ける理由があるのか、受けてよいのかという疑問をもっているだけです。それについてちょっと専門的な知識を説明し、さまざまな意見の参考になればと思っているだけです。まあ「動物がかわいそうなんだもん」というだけの理由だったら単純明快ですけど。ひとによって、宗教によって考えは違うわけですから、どんな考えがあっても良いと思いますよ。

みけ - 00/06/25 17:54:03
ホームページアドレス:http://www.eva.hi-ho.ne.jp/mikeneko/

コメント:
はじめまして、このページでいろいろと勉強させてもらっている者です。
この掲示板はいつもROMしてましたが最近の議論?にちょっと納得できない部分があるのでしゃしゃり出てきました。
わたしも1年ほど肉は一切食べてません。我慢してるわけじゃなく、本当に食べたくなくなりました。
わたしにとって、肉食は、心の枷でした。それからすこしだけ解放されたような気がして、
すこし生きるのが楽になったような気がします。
それに肉を食べないようになったらすっごく健康になりました。
薬なんてこの1年まったくといっていいほど使ってません。

おもに、みゅうさんへの意見になっちゃうのですが・・・
植物が好きで、植物を食べることが心の枷になる方は、植物を食べなきゃいいと思います。
ベジタリアンならぬミータリアンっていうのもありだと思いますよ。

あっ、そうそう、一番解決の近道っぽいのは、フルータリアン(果物しか食べない人)でしょう。
果物は、植物が、ほかの動物に食べさせるために実らせている物なので、これだけが唯一、本当に食べてもいいものなんだそうです。
(そう言ったのは、たしかガンジーだったような)
果実をもぎ取っても、当然、それを実らせた植物が死ぬわけじゃありませんし、
食べたあと、その種を土に埋めてあげれば、植物の望みも叶うわけだし。どうですか、フルータリアン?
動物も植物も同じように権利を与えるべきだとおっしゃるなら、どちらも平等に苦しめる(食べる)、ではなく、
どちらも苦しめない、どちらも食べないっていうほうが、筋が通ってると思います。

自分の健康がうんぬんっていうのは、また別の理屈だと思います。
健康が心配だから肉を食べたいって言うのなら、「肉だけ食べないのは不平等だ」などという理屈を持ち出さないで
ほしいです。
みゅうさんの結論は、はじめから決まっているのだと思います。
これこれこういうふうだから、自分は肉を食べる。じゃなくて、肉を食べたいっていうのがまず先にあって、
それを正当化するために、いろいろな理屈を持ち出してるだけだと思います。
こっちがダメなら、こっちで押そう、ああいえばこういう、みたいな。
といっても、別にそのやり方がいけないって言ってるわけじゃありません。わたしだって、肉を食べたくないって
気持ちがまず先にあって、健康になったとか、精神的に楽になったとか、そういうのはあとから付いてきた結果です。
その結果を、ベジタリアンのメリットを説く場合に持ち出すことはありますが、
実際は健康になりたいから肉をやめたわけじゃありません。

みゅうさんのようにあれこれもっともそうな理屈を持ち出してこられるより、「だって肉好きなんだもん、食べたいんだもん」
って正直に言われるほうが、わたしからすればよっぽど納得できるんですけどね。
肉を食べる理由が、単に食べたいという欲求から来るものではなく、肉だけ食べないのは不平等だからという、
極めて理性的なものであるというなら、みゅうさんが肉をやめるのはとても簡単なことですよね。
もちろん野菜をやめるのもとても簡単なことですよね。続ける、続けないは別として、ぜひ一度実践してみていただきたいです。

そもそも、「動物だけ食べないのは不公平」っていう理屈は、おかしいと思います。
だって、みゅうさんは、虫食べますか?爬虫類や両生類は?
牛や豚や鶏や魚や野菜や穀物だけ食べるのは、不公平じゃないですか。
虫やヘビやカエルも好き嫌いしないで平等に食べるべきです。そうなっちゃいませんか?



nyatete - 00/06/25 15:50:08

コメント:

 最近、たくさん投稿をいただいてるのですが、あまり返事を書いてなくて
すみません。投稿が続いているのでタイミングは悪いのですが、だいぶ重く
なってきたので一度、クリアさせて下さい。
下にひとつ前へのリンクをはっておきます。
◆過去のゲストブック その4


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